おわりに・ひとこと解説

 

 はいはいどうも。月が替わって10月ですね。残暑にしてはちょっと暑さが過ぎる今日この頃、みなさまは体調など崩されてないでしょうか。

 

 いくら現実の気候が夏を引きずろうとも、暦のうえでは9月が終わったのです。月初めに掲載を始めた「1000文字ちょっとエッセイ 30本マラソン シーズン3」、今回も予定していたテーマをすべて書ききりました!

 

 いつも夏はどうにも気持ちが浮ついて、文章なぞ全然書けないんです。ギラギラとした日差しと長い夕暮れの時間が大好きで、チャンスを見つけてはすぐに出かけてしまいがち。それでなくても楽しいイベントが続くこの季節は、息がつまるような思考からおれを解放してくれる数少ない時期なのです。ただ、頭の奥底では小人さんたちの議論が渦巻いているようで、秋風がせつなさをもたらすとともに頭のど真ん中に思考が帰ってくる…そんなシナリオを今年も思い浮かべていたのですが、なんにしても終わらない夏の暑さのせいで思考は鈍りまくり。おかげさまで、過去のシーズンより難産を強いられるお話ばかりでした。いや~、がんばった。

 

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 せっかくなので、各話についてひとこと解説を書いていきます。

 

  1. 夏の終わり

 このエッセイ集も、夏をやり切った後の空っぽな自分が迷走しないために始めたものです。

 

  1. ルーティンでととのう

 サウナにハマらなかった自分にとって、「サ活」に類するものは何かしらと考えました。

 

  1. 完成せずとも〆切は来る

 趣味の集まりで〆切を設定する立場になることが多いのですが、「〆切があるおかげで完成させられた」なんてよく言われるのですよ。

 

  1. 定時退勤

 SNSとかLINEの返事が休日しか動かない人、年々増えてませんか?

 

  1. 既読スルーの向こうに

 出会った頃に「返せなくてごめん、ちゃんと読んでるからね」って言ってくれた人と、もう長い付き合いになったことを思い出しながら。

 

  1. 本音

 1泊2日の旅行の帰りに珍しくグチをこぼしてくれた友達、元気かな。

 

  1. 同じになれなかったおれたちは

 誰かと同じになりたかった人だけがとる親しさの表現ってありますよね。

 

  1. イニシェリン島の精霊

 上映中は人間関係より描写のグロさに怯えてました。

 

  1. 友達に口をふさがれた日

 考えないこと話さないことがオシャレだとしたら、めちゃくちゃダサくなってやるよ。

 

  1. 正しくあるとは贅沢なのか

 こないだはエッセイを書いた後に、企業のお問い合わせフォームへのメッセージを考えてました。不買もいいけどちゃんと抗議しなきゃね。

 

  1. お餞別

 Twitterを追われた青い鳥さんに思いを寄せて書きました。

 

  1. 好きに理由がないのなら

 ずっと好きでいるなんて誓いようがあるのだろうか。

 

  1. 知と怒り

 自分の直観的な考えを補強するために知識をたくわえる人がいるんですよね、まったくもう。

 

  1. 子を育てない自分には

 どんなに忙しい時期を考えても、子育ての苦労にはかなわないような気がしています。

 

  1. 連休連休なに食べよう

 ストックなしでその日の夕方に書いた話。スラスラ出てきてホッとした。

 

  1. かわりもの

 どうも、自分が好きなものを融合させまくったキメラです。

 

  1. 不殺の剣を磨く

 仮タイトルは「傷つけないために学び続ける」だったものの、ひねりすぎて書くのが大変でした。カッコつけてんじゃねえよ。

 

  1. 期待しないなんてね

 自分は期待されたいのかもしれないなあ。

 

  1. よびみず

 個人主義を尊重することは、誰かに介入することとは相反しないはずですからね。

 

  1. それでも行為が好き

 めちゃくちゃセックスのことを考えながら書きました。

 

  1. 余白がつなぐ仲

 とはいえ、毎日会うような場で一緒になってたら…なんて想像もしちゃいますね。

 

  1. 一方的な愛

 趣味のように推しのように誰かを好きになると、その人が自分のために何かしてくれた時にうれしさで失神しそうになるので、まあ平たく言えばちょろくなりますね。

 

  1. ここにゲイがいるぞ

 さまざまな自治体にパートナーシップ制度が広がり、大学や企業でジェンダーセクシュアリティにかかる組織も増えて、それらが継続的に利用され運営されているという重みは、きっとじわじわと評価されていると信じています

 

  1. ぶらり独裁者

 タイトルを思いついたときガッツポーズしました。

 

  1. 純度

 なんて書いた数日後に久しぶりにゲイバーに連れていかれて、思いっきり気を使う空間で過ごすなどしてしまいました。

 

  1. つながりたい

 バンドの練習でしか会ってないような友達と、ぷらっと昼過ぎに小一時間コーヒーを飲めたのがめっちゃうれしかったりしたもので。

 

  1. 権威からの逃走

 同僚のおばちゃんが「昭和の女だから仕方ないのよ!」という引き合いを出すたびに、「吉永小百合も同じようにやるんですか?」とカウンターを打っています。

 

  1. 藍より青くなる頃

 最近ブルーなんとかってマンガが多いですよね。くしくも、アートの分野での成長を描いた作品が多いので、まさに「藍より出でて藍より青し」的な展開を示唆するものかとワクワクしちゃいますね。まあ、関係ないんでしょうけど。

 

 「筋を通す」と「変えられない主義に縛られる」って、外見上はわからなかったりするものですね。

 

  1. 繰り返される諸行無常

 何をするかより、何を繰り返すかですね。

 

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 あらためて、いろんな話を書いたような気もするし、案外同じようなことをぐるぐる書いている感覚もあります。同じことを2回も3回も書いていたすれば、たぶんそれはおれにとって大切なことなんでしょう。

 

 今回も事前にいくらかストックを作りつつ連載を始めたものの、いつしかストックが尽きてしまう日もあり、なかなか焦りながら毎日更新していたものです。もっとも、不安だったのは連載の中断よりも、Twitter(現:X)が突然サービスを終了することだったわけですが。

 

 とはいえ、この場に文章を載せてTwitterに載せるという環境は、自分にとっては大変居心地のいいものでした。好きな文章をせっせと載せるけれども、そんなに誰かに見られるわけではない。けれど、まったく見られていないわけではない。それならば、思う存分に自分の好きな表現を組み入れて、時には他の場所では披露できないような考えも盛り込んで、誰かに受けることよりとにかく自分で納得できる文章を書くことに努めました。

 ツイート(現:ポスト)やストーリーズのように浸透することはない文章たちですが、意思をもってこのブログを見に来てくれた方には、おれの言葉がきちんと届いていることを願っています。

 

 ではでは、あらためて今回のエッセイ集はここまでといたします。

 これからも何か企画を打ってみたり、あるいは単発で何か記事を投稿するかもしれません。その際はご笑覧くださいませ。

 

 ここまでお読みいただきありがとうございました。お身体どうぞご自愛くださいませ。

 

 

繰り返される諸行無常

 

「繰り返される諸行無常 よみがえる性的衝動」

 

 向井秀徳が曲中やライブで頻繁に発するこのフレーズ。最初に使われた曲もあるにはあるけれど、あまりに多用されすぎているために、特定の歌詞というより向井秀徳を象徴するフレーズとして人々に定着している。本人もまた、このフレーズについて明確に解説することはあまりないようだ。少なくとも自分は雑誌のインタビューやライブのMCで、本人の口から意味が語られることを聞いたことがない。

 

 明確な位置づけが浸透するわけでもなく、ただフレーズだけが長い年月にわたって繰り返し使われ続ける。かれの楽曲やライブパフォーマンスに触れ続けたファンにとって、いつしかこのフレーズが耳に深く馴染んだ存在となる。誰もが意味をよく解していないなんてことは問題にはならない。ひたすらに繰り返されたフレーズは、人々の記憶にたしかな存在感を放ちながら留まるようになるのだ。

 

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 他者とのつながりを揺るぎないものにしたいとき、繰り返すことで得られる強度ってあると思う。

 

 たとえば、何ヶ月か先に一緒に仕事をする予定だとか、遊びに行く約束が出来たとする。予定の日までちょっとばかし時間が開いてしまって、放っといても当日は迎えられるけれど、それだけではどうも心もとない。何か調整不足が見つかるかもしれない、そもそも相手が約束を忘れてしまうかもしれない。そんなふうに思うと、せっかく設けられた予定が浮き草のように漂流するのが心配で、おれは何かの約束を抱えている人には用事を見つけては連絡を取るようにしている。

 繰り返される連絡によって、「ああ、本当にこの人と一緒に取り組むんだな」というモチベーションが会わずとも高まっていって、当日が近づく頃には頭のなかを占める最重要予定にのしあがる。少し手をかけてひとつの予定を磨き上げて、キラキラと輝きを放った当日を待つ感覚はなかなか心地よいものだ。

 

 もしかしたら誰かと出会うこと自体は、ごくありふれているのかもしれない。ただ、その出会いへの目配せを繰り返して強固にできるチャンスは、そんなに転がっているものではないらしい。

 

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 おれがやってきたことも、長い付き合いのものはそれなりの説得力を持つようになった。

 

 髪型をセットすることも、ジョギングをすることも、楽器を演奏することも、目も当てらないような状態で始めてから何年も習慣的に繰り返してきた。それがいつの間にやらマシな出来栄えになってきて、今ではそれなりに自分を喜ばせることができる要素になっていった。

 ゴールを設けて逆算して進めていった物事もあれば、あてもなく積み重ね続けたら遠くにたどり着いた物事もあるものだ。おれはどちらかと言うと後者の方が得意みたいで、ときには自分も周囲の人も「なんでやってるの…?」ということですら、いつしか山のように積まれた場数を見てその価値を納得できたことがある。そんな成功体験を忘れられなくて、物事の繰り返しという行いに希望を抱いているのかもしれない。

 

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 今回のエッセイ集もこれでおしまい。

 誰かから書いてほしいと言われたわけでもなく、自分でも「本当にやるの?」と困惑しながら、時間と頭をずいぶんと使いながら文章を考えた。なんなら、パソコンに向かうたびに舟を漕いでいた気すらする。毎度ながら、もっと他のことに労力を使ってもよかったのではと思ったりもする。

 

 けれど、1ヶ月前に用意したお題のすべてに文章をつけ終えて、なんだか単なるエッセイが30本ある以上の説得力をつけられたように感じる。言いっ放しにしたいことをグッとこらえて整理して、はてなブログというショーケースに毎日ひとつずつ時間をかけて並べ続けた。おれの思いつきもなかなか筋が通っているではないかと、3シーズン目も順調に自画自賛をしている。

 

 あてのない文章書きの繰り返しは、おれをどこへ連れて行ってくれるんだろう。まあどこでもいいけどさ、その場所の暖かさを書き留められるくらいには腕を磨いておきたいものだね。

 

 

 

 もう一段階深く想像ができれば、

 この人はあらゆることに納得できるのに。

 

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 かれが弱っている人の話をよく聞くのは、

 結局は自分の好奇心を満たすためなのか。

 

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 長きにわたって誰かを見つめているうち、その人の思考にある枠の強固さを思うことがある。たとえ自分にとってはひょいっと転換できる発想でも、きっと当人はずっと脱することはないのだろう枠。どうにもネガティブな要素ばかりに目が行きがちな性分もあいまって、えてしてそういった気づきは肩が落ちてしまう性質のものばかりだ。

 

 何物にも縛られないんじゃないかというくらい自由に、あるいは何かにこだわることもなく日々を過ごしている人もたくさんいる。ときどきで物事へのこだわりを持たず、自由に一番いい選択を、あるいはラクな選択をスイスイと選んでいくようなね。

 その一方で、本人も気づかないうちに物の考え方にプロテクトがかかっていて、ステップを踏もうにも足がもつれてしまっているような人がいる。

 

 いや、本人は軽やかにステップを踏んでいるつもりだけど、傍目から見てヒヤヒヤするような足の運び方をしている人と言った方がいいか。ごく自然に自分を傷つけてみたり、あるいは誰かを傷つけてみたりするも、それすらも呼吸と同じような扱いだから気にしていない。指摘しても首をかしげられるくらいだ。

 

 そして困ったことに、どこかに違和感があろうとも愛らしい人間のひとりなのだ。ときどきもたらされる心のざわめきに目をつむれば、かれらは親切でチャーミングに付き合ってくれる。手放しの共感を喜ぶ瞬間が山とあるなかに、何か変だな?と思う瞬間が紛れ込む。そのたびに、ここはきっと長年この人についてまわるクセなのだと思ってしまう。

 

 ときに、どうにも直しようのない思考の枠組みを持ち合わせていることを含めて、その人を愛し続けることができるのだろうか。「ズレた間の悪さも、それが君のタイミング」なんて歌われるくらいだ。もしかしたら自分との相性が合わなくて、この人は違和感のある行動を取ってくるのだろうか…なんて悩んだこともあったけど、そんな人はたいてい誰にたいしても同じ行動を取っていた。そうなると、本人に深く根づいた性質まで、「そこは直した方がええで」なんて言葉をかけることはできない。他者に変化を促すだけの自信だとか傲慢さを、おれはもう振り回したくないのだ。

 

 でもどうだろう、 一癖ある性格を知ってまでかかわりを続けた結果、ある程度は深く付き合うことができるようになったことも往々にしてある。どうやらおれは、他者のややこしい部分を解していく過程がそれなりに好きらしい。自由に思考できる人は魅力的だけど、どうにも後に残らないことがある。

 

 そしてまた、自分も逃れられる見込みがない思考のループに囚われてばかりだ。おれが周囲の人を理解できなくて首をかしげている頃、向こうもまたおれの言動を見てクエスチョンマークを浮かべているのだろう。でもどうしてか、それらを放置したり忘れたりする手間をかけて付き合いを続けている。

 

 もしかしたら、死ぬまで誰かと腹を探り合っているのかもね。

 

 

藍より青くなる頃

 

 おれがクロスバイクに乗るようになったのは、前に一緒に仕事をしていた上長のすすめだった。当時、ドンキで買ったやっすいちっちゃい自転車で出勤時刻ギリギリに爆走してくるおれを見かねて、「きみはもっといい自転車を買った方がいい」と言ってくれたのだ。上長ならもっと見かねる点があるだろうと思いながらも生返事をしていたが、あれよあれよとおれを近所の自転車屋さんへ連れていき、きれいなブルーのクロスバイクを一緒に選んでくれた。

 

 もともと中学生の頃は、自転車で2時間や3時間の道のりを苦も無く走破していた身だ。毎日の通勤時間は大幅に短縮できたし、遠く離れた土地へもちょっとずつ自転車を担いで出かけるようになった。最初は伊豆半島に始まり、やがて東京湾一周や霞ケ浦、琵琶湖まで足を伸ばすようになる。そんなふうに休日を過ごしては、出勤したときに上長とお互いの輪行について語りあったものだ。

 

 上長はおれなんて比にならないくらいアクティブに自転車の旅を楽しんでいた。休日になれば、電車へクルマでも身構えてしまうような遠くの山や街まで、自転車とアラフィフの身体ひとつでたどり着いて、その翌日には何食わぬ顔で出勤してる。いまはもう異動してしまったけれど、たまに電話をかけたときはうれしそうに自転車の話をしてくれる。そんな話にいつも圧倒されながらも、いつかこの人が見た景色や味わった達成感を自分も感じてみたいと思っている。

 

 まあおれのことだ。どこかで自転車で何か大きなことを達成しようと心に決めて、誰もが驚くような場所まで…何より自分自身でも笑っちゃうような壮大な自転車旅をするんだと思う。ほんとだよ。してやるよ。

 けれど、きっとその頃にはあの上長は自分の手の届くところにはいないのだろう。おれにきっかけを与えてくれて、おれが何か成功したらきっと一緒に喜んでくれるあの人とも、未来永劫付き合いがあるわけではない。誰かにもらった種が花開く頃、種をくれた人はどこか遠くに行ってしまうのだ。

 

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 これまで生きてきたなかで、いろんな人がいろんなきっかけをもたらしてくれたが、そんな人たちの多くが容赦なくおれの前からいなくなっていった。一度きりしか会ったことがない人から教わったことですら、今でもおれの一部として大きな位置を占めていたりする。

 

 いろんな人が置いて行ってくれたものを育てて、「あなたにもらったものがこんなに大きくなりましたよ!」と見せるような体験ができたらどんなにいいだろう。少しは褒めてくれたり、あるいは刺激を受けてくれたり、はたまた同好の士として迎え入れてくれたかもしれない。けれども、そんな場は限りなく少ない。もらったものをひとりで育て続けて、ちょっとは自慢のひとつも出来るような出来栄えになる頃には、一番見せたかった人はもう近くにいない。べつに遅すぎたわけじゃない。人とのかかわりはあまりに移ろいやすく、物事を極めるにはあまりに時間がかかるということなのだ。

 

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 風の噂で、自分が過去にかかわった人が何かを大成させたと聞く。どうも、そのきっかけはおれがとっていた行動と、口癖のように言っていた言葉にあるらしい。どんなふうになったんだろう。会ってみたいな。

 

 けれど、それは無理な相談だ。なんせ、かれの姿も名前もよく思い出せないし、そもそも当時の自分はどんな言動を取っていたんだろう。まるで思い出せないんだ。もう、あの頃のおれはどこにもいないのだよ。

 

 

権威からの逃走

 

 使いたくないけれど、つい口をついて出てしまう表現に「普通は~」というものがある。「まあ普通はああするべきだと思うんだけどさ」「おれも普通にあっちを選んだけどさ」なんて、それこそ普通にありふれた言い回しではあるのだけど、どうしてわざわざ「普通」という価値観を付着させるのだろうと思う。べつに普通かどうかじゃなくて、自分が思う正しさが担保されているかとか、その選択をした状況がどうかとか、もっと説明がつく評価軸で物事を考えたいんだけどな。

 

 もしかして、説明がつかない物事だからこそ「普通は~」なんて言ったりする…わけない。ちょっと言いかえれば「安いから」「効率的だから」「(なんらかの根拠をもとに)正しいから」なんて言えたりするようなもの。あくまで、いちいち説明してらんない要素を省略して、話のテンポをよくするために使われるのが「普通は~」なのだ。うんうんそうだそうだ。言葉狩りをやめろ~!

 

 なんて「普通」の肩を持ちつつ、納得なんてさらさらしていない。じつは前段に示した「普通は~」の言い換えになりそうな例示を打つ途中、「みんなもやってるから」というフレーズを打っては消していた。しかも3回も。そう、これこそが「普通は~」というフレーズを忌避する理由なのだ。何かをするときに、その価値判断を風潮とか空気といったふんわりとしたものにゆだねたくないのだ。ときにはみんなして間違えてるくらいだし。まだ特定の他者を指して「○○もやってるから」と言った方が、根拠が見えてマシに思えるくらい。

 

 そもそも、「普通」であることを根拠に何かの行為が認められるとしたら、「普通」なんてものはとんでもなく権威的だ。意見を述べたあとに「それに、普通はこうするしね」なんて付け加えただけで、途端に反論することが難しくなる。

 

 とある権力者による差別発言が問題になった際、その発言内容もさることながら、「ここにおられるみなさんなら分かると思いますが」と、あたかも同調できなければこの場にいる資格はないと暗に述べるようなひとことがあったという。

 加害性を帯びた間違った考えであったとしても、発言者そのものとそれを支持する場が放つ権威により従わざるを得なくなる。もしかすると正しいとすら思いこんでしまう。そんな状況が存在することに身震いしたものだ。

 

 おれは、自分の意見をつよく主張することを好まない。正確に言うとしたら、自分の意見で人を言い負かすことを好まないのだ。意見はそれぞれが持っていて、歩みよったり譲り合ったりすることはあれど、完全に塗りつぶすことなんてない。ましてや、自分の意見を補強するために別の権威を持ち出して、意見ではなく権威で誰かを服従させる場面なんて、考えるだけでおそろしい。

 

 それでも、「普通」は強い。

 ここまで主張してもおれは「普通」をうっかり3度も使おうとしてしまった。「普通」は正しいことが多いし、間違っていたとしても自分だけがその責任を問われるわけでもない。適切な判断ができる材料が無ければ「普通」に身を委ねた方が正解であることは確かなのだ。

 

 ただし、「普通」とは権威そのものであることを忘れてはならない。手を伸ばせば情報があふれ、気になることを語り合える人がいて、なにより生きてきたなかで蓄積してきた経験もある。そんな要素たちをどろどろに煮詰めて、自分なりに導いた選択ができるはずなのだ。

 

 その結果、ごくありふれた選択になったとしてもいいだろう。だって、それはもう「普通」ではないからね。

 

 

つながりたい

 

 もし、何らかの事情で余暇として使える時間が無くなってしまうとしたら、自分は何を恐れるのだろう。

 原因はなんだっていいし、なんだってある。家族の世話をする必要が出てきた。ハードな職場に移ることになった。自分の身に深刻な問題が発生した…。そんな状況はいくらでも考えられる。

 

 どこか遠くに出かけられないのは残念だけど、まだ割り切りがつくような気がする。映画や音楽や本が楽しめないとしたらちょっときついけど、まあ全滅ということはないだろう。では、ごく身近な人以外との交流が絶たれることは…。これはイヤだな。結構しんどそうだ。なんでかって、自分の行いには小さくない割合で、誰かとのつながりを志向して実行に移したものが存在するんだもの。

 

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 子どもの頃から、誰かに用もなく声をかけることがとても苦手だった。たとえ、仲良くなった人であっても。

 一応あいさつくらいはできるけど、だらだらと他愛もない話をするなんてことがなかなかできない。自分の話をだらだらとするにしても気負ってしまうし、かといって相手の話をうまく受け止められる自信もない。ついつい、「こんな話し方でいいのかな?」なんてことを考えながら話しては、緊張感が相手にも伝わってしまいぎこちない空気になる。そして、そんなことがまた気になってしまう。

 

 会話がいっこうに得意にならない身でも、人とのつながり自体は渇望していた。どうにかして誰かとかかわるきっかけがほしい。そんな自分がとった行動は、共通の話題やタスクをとにかく集めることだった。流行りものの情報を集めるのも慣れなかったけれど、そのなかで好きになれるものを見つけるようにし、一緒に取り組めることがあればどんどん飛び込んだ。

 

 そのかいあってか、今ではそれなりに人とのつながりも持てているし、むしろひとりで過ごす時間がたりないと感じることもある。けれども今度は、自分が得たつながりは何かの役割を演じたうえでしか保てないように見えてきた。ドラムを叩く人、ゲームの話ができる人、取りまとめ役をやる人…、そんな役割が漂白されたら、どれだけの人がつながりを保ってくれるのだろう。あるいは、自分の目の前から消えていくのだろう。

 

 そしてあるときに気づく。おれはとるべき行動は誰かとつながれる役割を得ることではなく、つながりを保ってくれる人を探すことだったのだ。思い返せば、誰の気を引くでもなく振る舞っていた頃でも、付き合いを持ってくれた人はそこここにいた。けれども、そんな人たちをいつしかあまり大切にできなくなってしまった。なぜなら自分自身もまた、なんでもない人よりもどこかに光るものがある人とつながることばかりに価値を見出してしまったからだ。

 

 なんとなく出会った人こそ大切に扱うべきだったのだと気づきつつも、役割を身にまとって他者に近づいていくうちにそれは脱ぎ捨てられるものではなくなり、やがて他者にも求めてしまう。何も持たずに他者とつながるときに見え隠れする退屈さに怯えるようになり、おれはすっかり消耗し合う人間関係に身体を沈めることになったのだ。いまになってもなお、おれは誰かと一緒にできる物事が見つからないとき、あるいは誰かと共有できるコンテンツがないとき、このままひとりぼっちになってしまうと真剣に落ち込んでしまうのだ。

 

 本当は、ときどき誰かとただボーッとしたかっただけなのにな。なんだか、そんな時間の過ごし方すら恐れてしまっているよ。相手が何もない時間に価値を見出さないような人だったら別れが待っているだろうし、先に自分が価値を見失ったら自分からだんだん距離を取るようになる。考えるほどに一筋の冷たい風が吹くような予想を立ててしまうくらいには、おれはいろんな人との仲を疎遠にしてしまった。

 

 それでもつながりへの欲は消えそうにない。

 

 ああ今週末も約束が入っているな。

 そこで会う人とはあと何回会えるのかなあ。

 

 

純度

 

 もう10人とかそれ以上の人数が集まる飲み会に行かなくなって、どれくらいの時間が経つのだろう。

 単に新型コロナの流行で一気に大人数の飲み会の機会が減ったのかしら?なんて思いつつ、たぶん何事もなくともそういう場からは遠のいていったようにも思う。実際、ここ1年くらいでじわじわと大人数の飲み会へのお誘いも戻ってきたけど、全部丁重にお断りさせていただいた。

 

 そのかわり、数人で食事に行ったり飲みに出る機会は増えた。ありがたいことにいろんな人からお誘いをもらったり、あるいは自分から誘ったりしている。食事でなくても、カメラを持って散歩しに行ったり映画を観に行ったりと、いろんな方法でいろんな人と話をする機会に恵まれた。その都度、めいっぱいその時間を楽しんでニヤニヤしながら家に帰れている。無理やり楽しもうと飲み過ぎることも減って、二日酔いに苦しむことはほとんどない。

 

 少人数の集まりに求めていることと言えば、その場に気が合わない人がいないことだ。おれはなにぶん偏屈さが過ぎる性分なので、その場に気が合わない人がひとりでもいると途端に気持ちが冷めてしまうのだ。大人数の集まりになるとどうしても気が合わない人がその場にいて、たとえそれ以外がみんな好きな人でも手放しで楽しめないのだ。

 

 思えば、気が合わない人をとことん避けたがるのは最近始まったことではない。何かの集まりに行くことになり、顔ぶれを見て正直行きたくないなあって気が重くなる場面はいくらでもあった。それでも、実際に一緒に過ごせば仲よくなるかも…なんて淡い期待をいだいたりもしたが、結局は満足に楽しめないまま帰ってくることばかり。そんな経験が積まれたうえに、リスクがある場に足を向けるだけの体力がもったいなくなってきた。それならば自分のために時間を使いたいし、あわよくば旧知の人との仲を深めたい。

 

 もし、気が合わない人のひとりくらい気にしないでいられて、仲のいい人がたくさんいる状況にピントを合わせられたらどんなにラクだっただろう。もっといろんな場に顔を出せて、楽しい時間を過ごせたのかもしれない。でもまあ、それはないものねだりだった。誰にピントを合わせても大丈夫な場を増やしていくしかなかった。そういえば飲み会からの帰り道のたびに「今日も馴染めなかったな…」なんて悩んでいた頃があったけれど、その頃は自分にしっくりくる場を見つけ切れてなかったのだろう。身を置ける場所が足りてなかったんだな。

 

 いまとなっては、自分が一緒にいたいと思える人と予定を組むだけで十分だし、それが窮屈になっている感じもない。仲のいい人とだけ広げられる世界だってあるのだ。狭い人たちのなかで共通言語をどんどん構築して、自分たちが過ごしやすい空気の純度をあげていく。そんなことを楽しむのもよいではないか。