こうなりたかったのかい

高校生の頃、小難しい哲学書を読んだり政治の問題について考えたりしては、「こんなにも世界には難しい問題があるのに、どうしてみんな物事を深く考えないのだろう。だから世の中はよくならないんじゃないか?」と考えていた時期があった。

けれども、今になってそれは半分ぐらい合っていたのかな。なんでかって、確かにこの世は問題だらけで人々のモラルだとか思考が変われば解決されることはいくらでもあるんだけども、そういう考えに至らない人がたくさんいるのがまずひとつの事実。半面、世の中がよくなる方策があろうとも、ひとりでジタバタしても仕方がないので自分で解決出来る問題だけにあくせく取り組んでいる人もまた大勢なのだと思うわけ。

人とのつながりを極端に拒んだ時期と求めた時期を繰り返して、チョロQみたいに壁にバコバコ当たりながらも軌道修正をした結果、自分も深遠な問題についてうんうん考えるより、目の前の人とハッピーに暮らすことと、「問題は無くはないがどちらかと言えば不満はない」といったレベルの居場所でストレスなく過ごせるよう、自分をだまくらかして適合するのを落としどころとすることにした。

本当なら自分の美学みたいなのと真剣に向き合いたい。納得できる仕事をしたいし、やりたいこと全部やりたいし、誰一人に対しても嘘をつきたくないし、おかしいニュースがあれば調べつくして正義のために動く人を助けてみたい。でもそうもいかない。労働に身をささげるにはあまりに人生は短く、やりたいことを全部やるには体力も気力も自分という個体に設定された限界があるし、嘘は方便だし、正義より強い虚構は確かにある。

ただ当たり前に生きるためには、なにをするにもどのくらい力を入れるかを計算しないといけない。それが上手くなりつつあるのがただ悲しい。計算が出来なくてつぶれていく友達を見るのも悲しい。友達じゃないけどSNSで目に入ってい来る人を見て、「この人見た目も悪くないし真面目で熱量もあるのに、不器用だからつぶれていくんだな…」と同情か嘲笑か分からないけどなんらかの感情を娯楽のように浮かべている瞬間も悲しい。まあ向こうも別に自分のことなぞ気にも留めてなさそうだからいいんだけどさ。こうして何も生まれてやいない。

まだ髪の毛を茶色にしてたような頃に考えたことがある光景があって。。自分が乗り込んでいる電車が人肌ほどのぬるま湯で満たされた海にだんだんと浸かっていって、一緒に乗っている人たちもそれなりにいるんだけどみんな静かに外を眺めていて、体が沈んでいくごとに周りの人たちの思考と一体となる感じがしていき、電車が完全に沈むとともにみんな海に溶けて消えてしまった。誰も悲しくことなく…。みたいな。

当時は当時なりに嫌なことも悲しくなることもあり、きっと今よりも傷つきやすかったと思う。そんなとき、死んでしまいたいと思うことがあってもそれは100%そう思っていたわけではなく、どちらかと言えば消えてしまいたいという気持ちに近かった。でももっと言えば、人ごみにまぎれて悲しみも寂しさもなく溶け合うようにして消えてしまいたい、そんな発想だったんだと思う。

最近はそんなことを考えることも減ってしまった。俺は強くなってしまったんだろうか。いやそんなことはない、たまにだけど落ち込むこともある。どちらかと言えば原因がすっかりなくなってしまった。だってそうなるように努力したもん。おかげで周りからはしっかりした人のように見えているのかも知れない。人として強くなる方法は今をもってしても分からないのだけど(一般論としては分かるけどそれが自分に適用できる気がしない。元がザコすぎて。)、強くならなくてもいい方法は無事見つけられたらしい。

そういえばもう一個、あの頃に考えていたことがある。どこか交通の便が悪い辺鄙な土地に、ホモだけが生活を営む漁村があって、そこで恋人とひっそりと暮らしていくという日々。都会の流行りも世界の経済のこともわからないけど、昼になったらなに食べようか、夜になったら何の曲をみんなで歌おうか、今年の春はいつくるんだろうか、そういうことには誰もが興味を持つコロニーがあったらなって思ってた。。さすがに夢想がすぎるしホモだけの村とか性病ヤバそうだな。コンドームとか絶対流通量少ないし。

前はそんな風に閉じた世界で暮らしていくことを夢見るなんてどうかしてるのかな、自分はきっと変わってるな安心安心といった気分だけど、いまになってそんなの当たり前じゃんって気づいてきている。当時遊んでいたやっぱり髪が茶色い友達も、その後に出会った黒髪の給与所得者も、みんなせっせと結婚相手を見つけて家庭という閉じた世界に生き始めている。彼らは仕事をしっかりしているし、たまに遊んでくれることもある。けれども、もう外の世界にアンテナをしっかり向けて生きているわけではないことを自他ともに知っている。だってあの頃の俺たちにとって、遊ぶ=一緒に酒を飲む、ではなかったじゃんか。とにかく新しいことをすること、行ったことのない場所に行くこと、誰も知らない文化を追い求めること、そんなことに必死だった彼らはどこに行ってしまったんだい?

気が付いてみたら、せめて自分と一緒に居る時くらいは友達もバカであって欲しいと思うようになり、俺はいまでもバカみたいにドラムを叩いて旅行に行く機会を作って隙があればイベントめいたこともやる。いや、そんなのは言い訳が欲しいだけで、自分自身がくだらないことをやりたいだけだと思う。いずれにしても、俺はますます人々が共通して向き合うべき問題から離れ、学生の頃に興味があった思索の世界から離れている。困ったぞ。なんで変に公共性がある人間になりつつあるんだい?俺はきちんと興味がある問題について向き合い、湧き出るセンチメンタリティに涙して、ジタバタしてもどうしようもないことについてジタバタしていたい。俺という人間の価値は、俺だけが知って、俺が死ぬときに無くなってしまえばいい。その時はなるべく遅い方がいい。生きているのは底抜けに楽しいからね。