人は一度しか生きられない

 

 若くして一時代を築いた人気バンドが、人気が落ち着いたのちにインド音楽への接近を試みたことがあった。楽曲のアレンジに独特な音階の旋律が取り入れられ、衣装もロックスター然とした派手なものだったのに対し、インド音楽が楽曲に取り入れられた頃はストールを取り入れたり極彩色シャツを取り入れたりして。その流れのなかで、リーダー以外のメンバーは次々と去っていった。

 

 このバンドはその後、ブームを迎えたときのメンバー構成に戻り、人気が出た頃の楽曲をふんだんに取り入れてふたたび活動を開始することになる。一時接近した、インド音楽テイストの曲をほとんど出すこともなく。

 

 そんなアーティストの歩んできた道のりを見たとき、まだ10代後半だった自分には、この「インド期」がなければ人気があった頃の流れを汲む楽曲がたくさん出来ていたはずではと、残念に思う気持ちが強かった。もっとキャッチーでカッコいい曲が世の中を席巻したかもしれない。あるいは、売れなくても隠れた名曲を量産してくれて、チェックしがいのあるアーティストになっただろうなと。

 

 しかし、そんなことはリスターのエゴであることに気づく。なんてったって、人は一度しか生きられない。たまたま売れた音楽性を焼き増ししていく人生だけでなく、アーティストが新たに興味を持った音楽性を実践することもまた、自身の表現について誠実であるのだろう。誰もが知っているアーティストとしての人生が一度きりならば、日本ではあまり聞かない分野の楽曲を人前で披露する人生も一度きりだ。

 

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 自分も周りの人も、人生でどれくらいのカードを引くことが出来るのだろう。

 

 あまり多くの選択をせずに過ぎゆく日々を漂うような生き方もあれば、一分一秒を惜しんで新たな知識を得たり人と会ったりしてまだ見ぬカードを次々と引いていく人もいる。

 

 もう引けないカードもあれば、ずっと手札として持ち続けなければならないカードもある。ほしかったものや得たかった体験を諦める一方、何か心に決めた物事をずっと抱き続けるようなね。

 

 そこらのカードゲームと違うのは、周りのプレイを邪魔してはいけないことだ。他者の可能性を狭めたり、カードの運び方とその結果についてとやかく言うのはなしだ。みんな自分の手札の処し方とかに悩んでみたり、直視しないでやり過ごしたりしているのだ。

 

 そして、だんだんとカードゲームの感覚がつかめてくる。このデッキは意外とカードを引くチャンスが少ないかもしれない。いいカードを引いてもとっさにうまく振る舞えないこともある。適当に場に出した手札について、ずんと責任を負うこともある。でも、切り札をいいタイミングで使えた体験が、自分を奮起させたり誰かとの信頼につながったことだってある。

 

 一度しか遊べないこのカードゲーム、自分も周りも時として大胆な試合の運び方をしているぞ。いいだろう、気に入ったカードは全部使ってみて、自分がどんなふうになれば見ればいいさ。

 

 おれのデッキが尽きるとき、どんな盤面が広がっているんだろう。捨て札を見たときの寂しさはいかほどだろう。まあでも、それが分かる瞬間も一度きりの人生のほんの一瞬だからね。目前の選択を誠実に丁寧に積み重ねていくだけだ。

 

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 目をつぶって、大きく深呼吸をしてみる。

 今日のドローはもういいかな。

 

 

 

あれが最後だったのか

 

 千葉の海辺をクルマで走っていたとき、もう何年も前に当時の友達と遊びに来た海岸を通りかかった。ワンボックスのレンタカーにきっちり8人くらいで乗り込んでめいっぱい海水浴を楽しんで、クルマを返した後も居酒屋なんかに行ったりした一日。今でも燦々と輝くひと夏の思い出だ。

 

 ひとしきり思い出に浸ったのち、あの日以来海水浴をしていないことに気づく。もう30代にもなったし、一緒に海に入ってくれる友達というのもなかなかいない。そもそも海に入ってみたいなんて欲もそんなにない。お腹も出てきちゃったし。いやあ、入ったら楽しいんだろうけどさ。

 

 そうして気づく、あの日が人生最後の海水浴だったということを。

 

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 学校の卒業式や職場での退職のあいさつのようなイベントに接するとき、そこでは誰かとの別れが明確に示される。「ああ、もうこの人と会うことはないのか」「出会えてよかったな」「ちょっと寂しいから、これからも個人的なお付き合いは続けていこう」みたいな思いを頭で泳がせて、ひとしきり気持ちに整理をつけて、関係の終焉とか移ろいを受け入れることになる。

 

 とくに学生の頃は分かりやすかった。修学旅行とか卒業旅行にしても人生に一度しかないことは明白だし、卒業式はもちろん転校生を見送るのだって、それがお別れだと規定してくれるイベントだ。そういったひとつひとつのイベントを通して、ある時期が終わってしまうことを受け入れる訓練をしていたのだろう。

 

 しかし、オトナになってみるとそんなにお利口さんな最後は決して多くない。後になってから、「あの人と会うことはもうないんだ」「あの場所に行くことはもうないんだ」という気づきがやってくることばかり。そして、さびしさに見舞われるかと言えばなんとも中途半端で、消化不良な気分をやり過ごしてまた日々を過ごすことになる。

 

 別れの挨拶もできぬまま……いや違う。別れるつもりなんかなかった、あの場所よ、あの人よ。その存在に触れらない寂しさと、いとおしさを感じていたはずなのに思い出すことがなかった不誠実さが、掴むことが出来ない煙のように胸を満たしてくる。そしてその煙は、なかなか胸から消えてくれない。

 

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 親に連れられてよく行っていた大きなホームセンター。

 

 高校生の頃に初めて好きと伝えた人の家にあった長い階段。

 

 たまたま取れた平日休みの午後に、ガラガラのカラオケでフリータイムを楽しんだ友達。

 

 数年間練習を重ねて、ライブの打ち上げの後に「またライブやろうね!」って新宿の路上で別れたメンバー。

 

 どれもこれも、また行けると思っていた。また会えると思っていた。そして、それが叶わないことへの寂しさが薄いことに、ほかでもない自分が驚いている。あんなに大事だったのになあ。暖かい気持ちになれたのになあ。

 

 そして、今日話した人も、訪れた場所もまた、いずれは全部過去のものになる。

 

 気がつかないままに。

 

 

わきまえない

 

 数年前、ポケモンのオンライン対戦にハマっていた。

 対戦ルールこそ子どもの頃からよく知っているストーリープレイとほぼ同じだけど、対戦相手はランダムに決定され、自分も相手もリアルタイムで次の行動を考える。インターネット上では日々新しいパーティーや技が発見され、刻々とブームが移ろっていく。ポケモンというよく知ったコンテンツのなかで、新しい要素が日々見つかっていく刺激がちょうどよかった。

 

 せっかくオンライン対戦に臨むならやっぱり勝ちたい。たくさん勝ちたい。それも流行っているポケモンを使うのではなく、流行っているポケモンを次々と倒していきたい。メインストリームへの反逆。まあ逆張りなだけなんだけど、流行りのパーティーを倒すことを目指したポケモンを揃えて対戦に臨んでいた。

 

 しかし、勝てない。まあ勝てない。やっぱり流行っているポケモンとパーティーにはそれ相応の理由があるのだ。天敵とされるポケモンを出しても、対策のため入れられた別のポケモンに交代されてしまうし、そのさらに対策までは考えていない。全く考えてなくはないのだが、そこまで咄嗟に立ち回りが考えられず、あれよあれよと崩されてしまう。そして連敗がまたひとつ積まれていく。

 

 負けが込んですっかりやる気もなくなって、勝つとか気にしてもしょうがなくなる。好きなポケモン、好きな立ち回りで楽しもうと方針を切り替えてみる。おれが逆張りの次に惹かれるのは、あまり他の人がやらないような面白い立ち回りで勝つことだ。一瞬だけ流行って廃れたムーブや、とにかく好きなポケモンを中心にしたパーティー。そういったものを研究して取り入れてみた。

 

 するとどうだろう。勝率がじわじわと上がってきた。勝つためのパーティーじゃないからパーティーに入れたポケモンすべてに愛着があるし、どんなクセがあってどうしれば輝くかも咄嗟に考えられる。そして、思い描いていた勝ち方が出来るととても気持ちよくて、ついついもう1回と対戦を重ねていく。

 

 もちろん、倒したい対象について研究してカウンターしていくやり方も、精度を上げていけばちゃんと有効だったとは思う。けれど、相手に合わせて自分のあり方を決めるより、自分のやりたいようにやることが自分にとっては近道だったらしい。

 

 なんだか、自分より強い存在に合わせて立ち回るって、「自分の立場をわきまえて」なんて表現がちらついてくる。ただゲームで勝つにしても、相手に合わせて勝つより、自分の勝ちたい方法で勝つことにどうにも価値を感じてしまう。ましてや、これが仕事や人間関係の場だったらどうだろう。相手に合わせて自分の立場をわきまえたふるまいをして、その場の地位を保っていく。うわ、なんて窮屈なんだ。そういった場にしても、自身が思うように立ち振る舞ったうえで存在感を出せるのが理想ではないだろうか。

 

 それでもやっぱり現実は、強い存在の顔色をうかがって暮らしていくのがやっとという場面が多い。そうでなくても、場の空気に従ってわきまえたふるまいをした方がラクだったりする。まあそれは仕方ない。いつか自分のやりたいように出来る機会を得るまで生存することが第一に大切なのだ。

 

 息をひそめて暮らしながらも、いつでも「わきまえる」を捨てても生きていけるくらいの実力がほしい。ゆえに、自分がやりたい行動、大切にしたい行動原理としっかり向き合って、いつかチャンスが回ってきたときに「わきまえる」から自由になれるよう研鑽を積んでいくのだ。

 

 

大きくなっただけのこども

 

 学生の頃にギタリストとしてコピーバンドを組んだ時に演奏した曲をひさびさに弾いてみた。あの頃からギターを弾く機会もなかったわけじゃないし、今なら案外余裕かも?なんて構えてみたけど、これがまあ全然弾けない。なんなら当時の方が弾けたんじゃないかってくらい。

 

 一応確認のために最近覚えた曲を弾くと、こっちはまあまだマシ。やっぱり直近で練習していると違うもんだ。でも、これじゃあおれは曲こそ覚えることはあっても、ギターがうまくなっているわけではないんだな。覚えてる曲にしてもそんなにラクに弾けてるわけじゃないし、安定感なんてあったもんじゃない。

 

 いまほんのわずかに出来ることは、ギターを手に入れた頃にひたすら弾いて習得したことばかりだ。コードチェンジとかちょっとしたギターソロは、最初にうりゃーって弾きまくってたら出来るようになってた。単純に音を出すのが楽しかったのが大きいけれど、早くうまくなって人前で弾けるようになりたいって思いも強かった。

 

 そうか、「うまくなりたくて」練習するということが大切だったんだな。惰性で弾いていても、それは出来ることの焼き増しにしかならない。多少はミスを減らせるかも知れないけど、それもミスを皆無にする練習とは別物だ。最初に覚えた技術だけで、のらりくらりとここまで来てしまった。楽しいだけならいいけれど、またバンドでギターを弾くことになったらちょっと大変かも。

 

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 おれもいい歳になってしまったけど、上手になれなかったことばっかりだ。料理はよくするけれど、誰かに食べてもらう機会も少ないし自分だけが食べるならこだわりも薄いから、そんなに上手になろうと張り切った場面が少ない。そういうわけで料理が上手というわけにはならなかった。本もいろいろ読んだけど何かの分野について深く研究したことは少ないから、なんだか知っていることが散漫としている。少なくとも何かの専門家にはなれなかった。

 

 きっとあらゆる分野において、何かを極めるにはどこか遠くに旗を立てて経験なり知識を深めないといけないのだろう。実際仕事の場では、そういったことにわかりやすく取り組むことになり、しばらく働けば一人前のプロとして利益を生むことが出来る。

 

 そう思うと、案外こどもの頃のまんまなことなんてたくさんあるんだろうな。おれも見てくれだけはおじさんだけど、競馬とかパチンコのことはわからないし、どの日本酒がおいしいとか、どうすれば節税出来るかなんてもわからない。知ろうともしなかったから。物事への理解度という意味ではこどもと変わらない。おとなになろうとした分野でしかおとなにはなれなくて、あとは大きくなっただけのこどもなんだな。

 

 なんか当たり前のことを書いている気もするけど、生きている時間だけは重ねてきたがゆえの万能感みたいなものの影を感じることがあるし、そのうえインターネットの力でいっちょかみの知識くらいならいつでも得られるようになった。でも、自分が見て聞いて手を動かした経験のない物事なんてまだ山のようにある。そして、その大半に触れることなく一生を終える。人の一生で経験できることなんて、ほんの一握りだ。

 

 だからこそ、あらゆることに謙虚になって、そのうえでおとなになれるような挑戦をいろんな分野でしていきたいものだね。

 

 

穏やかで寛容なおとな

 

 いつ会っても穏やかな表情を浮かべ、あらゆることを寛容に受け止めてくれる。争いごとを好まず、けっして声を荒げることがない。一緒にいて安心できるような人柄。そういった人が「おとな」として世間的に目ざされている。

 

 自分も同じように思っていた。というか、大部分では今でもそう思っている。基本的には他者を前にしたら穏やかで機嫌よく、そして寛容でありたいと思っている。何か追いつめられてたり疲れているときに、つい他者に向かってむすっとした表情を見せてしまうだけでも、ああ修行がたりないなあと反省したりする。

 

 そして他者にたいしてだけでなく、自分自身にたいしても凪いだ水面のような気分でいつも居たいとは思っている。軽快な音楽を聴きながらフレンチトーストを焼いてみたり、やわらかな日差しのなかでのんびり自転車を漕いだりしていたい。好きな人とくだらない話をしたり、ぼんやりと海を眺めていられたらサイコーだ。

 

 同じような価値観を持っている人は世の中にいっぱいいるみたいで、それこそ軽快な音楽にのせて歌われる歌詞が穏やかな生活を礼讃するものであったり、お気に入りの食器に美しく仕上がった料理を載せて写真をSNSにあげる人も多い。「丁寧な暮らし」なんて言葉は、最初はSNSのタグだったと思うんだけど、いまや会話でも使われるくらいには一般的なものになった。

 

 穏やかさが志向されるのは精神的な部分でも同じで、人と人が罵り合うような言い争いは忌避され、問題があれば落ち着いた話し合いで解決を目指し、それでも難しければそっと距離を取る。合わない人とはなるべくかかわり合いにならないようにする。誰もが傷つかずにいられるような在り方を模索して過ごしている人が多いように思う。自分もまた、そうありたいと思う時間が大部分だ。

 

 ただ淡々と日々が続き、生活のなかに穏やかさとささやかな幸福を求めていく。そういったテーマをいつも自分の真ん中に据えて暮らしていくことを、きっと多くの人が求めているのだろう。

 

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 しかし、穏やかで寛容であるのがすべてでいいんだろうか。少なくとも自分は、年々考えが変わりつつある。

 

 ひとつ思い出される出来事に、あるアイドルグループについて性加害の報道がされたとき、そのアイドルグループに多くの曲を提供してきた作曲家が「わたしの役目はみなさんの生活の潤いになるような曲を提供することであり、事件についてお話しすることはない」といった趣旨の発言をしたことがある。

 

 その作曲家はまさに穏やかで寛容なおとなのアイコンと言ってもいいような楽曲をたくさん作っていて、そうした作曲家が犯罪行為についてNOを示さなかったことに残念な思いがした。そして、それも当然の反応と腑に落ちてしまったことにも。

 

 だってさ、穏やかで寛容を前面に出している人は、ゆううつな事件や犯罪について話題にしない。だって穏やかじゃないんだもん。だったら「そういう人もいるよね」くらいの寛容な態度で流しちゃうもん。少なくとも自分だったらその選択肢が頭に浮かんでくる。

 

 でも違うのだ。

 誰かの人権を踏みにじるような行為については激しく怒りをおぼえるって当然なのだ。あるいは、憤りを感じるがそれを表現する方法がないから表情に出ないのも現実的には起こることだ。いずれにしても、「まあそれは自分の穏やかな暮らしには関係がないので」といった態度を取ることは、単に自分の世界を生きているだけなのだと思う。

 

 自分の世界だけを穏やかに寛容にするのが関心事なら、その外にいる他者がどうなろうと知った話ではない。世の中の不平等について傍観し、権力者から施しを受ければ喜んで他者を蹴落としていく。そんな行動が予測出来てしまう。それって、目指すべきおとなの姿なのだろうか。

 

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 まあ、どんなおとなでいるかなんてのは、めいめい勝手にやったらよろしい。ただおれは、世の中の不当さに憤ったり不寛容であることを捨てずにおくよ。

 

 

 

誰かのコンテンツとして

 

 気がついたら何年もチャンネル登録をしているYouTuberがいる。

 いまでも定期的に動画をアップしていて、再生してみると笑える場面もあれば感心するような場面もあり、お決まりとなった展開に安心したりする。そうして10分程度の視聴を終えて、もう一度流すなり過去の動画を観てみるなりしてみる。

 

 こんなふうに長いこと活動しているYouTuberがふとこぼれ話的な雑談をすると、「じつはネタ切れを恐れてて」なんてことを吐露するのもよくある話だ。そりゃそうだろう。いくら1本10分とかでも、そこに詰め込まれた情報量と来たらけっして少ないものじゃない。定型化した動画のつくりこそ確立していても、動画で取り上げる対象は常に新しいものが求められる。もしくは、対象が変化しなくても見ごたえのある切り口を提示しなければならない。それを少人数で、というか多くの場合ひとりでだ。

 

 人ひとりが処理できるコンテンツの量なんて限界があると思うのだけど、それでも著名なYouTuberたちは常に新しい物事に興味を持ち、体当たりで挑戦したり学んだりしてみて、その体験を豊かな語彙を持って表現する。そんな姿勢にはただただ感服するばかりだ。

 

 ただ、YouTuberほどのストイックさは要らないにしても、常に新しい刺激を取り入れたおもしろい存在であることは、そこらの人にも求められているように思う。なぜなら、誰かと付き合いを持つうえでは、自分も相手もコンテンツとしておもしろくないと退屈な時間を過ごすことになってしまい、やがて離ればなれになってしまうように思うからだ。

 

 そんな、平凡にありふれた人までコンテンツ扱いするなんてとは思うのだけど、実際どうなんだろう。会話におもしろさを感じなかったり、何か新しい知見を得られることがないと、たちまちにその間柄を共有するのが苦痛になってしまう。仕事とかパートナーシップを共有することで関係が続くとしても、長期的に見ればもっと実のある人間関係を求めて環境を変える選択をすることもあるだろう。

 

 けれど、そんな想像がつらい。おれにはつらい。お互いに好意を持って心地よく過ごせていた仲なのに、自分がコンテンツとしてつまらないのが原因で関係がもたなくなる状況があるとしたら、なんてかなしいことなんだろう。そして困ったことに、おれはちょっと油断すると自分ひとりで楽しむ前提のことばかり見つけてしまう。誰かと共有出来る楽しみを探すのが後回しになることがままある。

 

 楽しいと思うことを楽しむのは至極当然のことだ。そこにわずかばかりの社会性を帯びさせると、周囲の人も巻き込んで楽しめることが出来る。映画を選ぶときに誰かとの話題に出来そうな作品を選んでみたり、旅行先で話のタネになりそうな名所やグルメを楽しんだりする。そのひと手間をかける余裕があればいいのだけど、夢中になりすぎて気が回らなかったり、何かに疲れていて自分の興味を追うので精いっぱいになってしまうことがある。そうしておれがコンテンツとして力尽きた頃、誰もがおれのそばから立ち去っていくのだろう。

 

 こんな読みは悲観が過ぎるのだろうか。でも確信を持っているんだ。

 なんでかって、おれもまた「この人つまんないかも」って思いから、人を遠ざけた過去を抱えているもんでね。

 

 

やめる理由がない

 

 まだ新卒何年目かの頃、ちょっと筋の悪い伺いごとを別の部署に回したことがある。

 

 きっかけは上役の無茶ぶりの仕事で、浅い経験でも無理筋と分かりつつも断るだけの知識や経験もない。先輩とも相談しながらなんとか書類を作って、内心こんな書類通るのかな、なんてビクビクしながら回してみる。いつもより返事が遅い。電話のひとつでもかかってくるだろうか、なんか小言言われたらイヤだなあ。

 

 しばらくして、回した案件が承認されたと連絡が来た。びっくりしながらも電話口でお礼を言いつつ、「あの、正直承認いただけるか不安で……」と漏らしてみたときのひとことが、今でも自分の中でお守りになっている。

 

 「別に、差戻す理由も見当たらなかったですしね」

 

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 いやいや、そんなフレーズがお守りになるの?って感じになりますよね。どちらかというとムカつくひとことにも感じ取れるし。

 

 一応補足すると、ここでの別の部署の担当者は顔見知りで、折に触れて気にかけてくれる存在ではあった。だから冷淡に言われたというより、「うまくやりましたね」ってニュアンスが見える声色で優しく語り掛けてくれたのだ。

 

 おれがここで感銘を受けたのは、「あえて止める明確な理由が無ければ認めよう」というマインドだったと思う。(関係者がみんな理性的な人であるのを前提としたうえで)何かを止めなければならない根拠がある場合、それは先人たちの歴史が血で書き残した教訓だったり、自分が味わってきたひどい体験がトラウマとなって羽交い絞めにするとか、おしなべて理由があると考えた方がいいことが多い。踏切が下りているのに歩みを進めるのは当たり前にやめた方がいい。

 

 けれど、「認めていいか分からないけど、止める理由はない」という場合は、案外ゴーサインを出しても大丈夫だったりするらしい。棒が降りている踏切に突っ込むのは無謀だけど、ただ棒が上がった踏切があるだけなら、きちんと左右確認して足元に気を付けて進めば、なんら問題なく通って大丈夫なのだ。

 

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 理由がなければとやかく言わないでおこうというマインドは、普段の暮らしにも見え隠れするようになる。なんとなく聴き続けている音楽も、あまりダイエットにつながっていないジョギングも、付き合いを続けている人間関係も、理由がなければそのまんまでもいいかって思うようになった。

 

 まあ惰性ちゃ惰性なのだが、長く続いたものを惰性だからと切り捨てるのも違うように思うのだ。あえて止める理由が無ければ続くのも悪くないし、ただ存在し続ける物事にいちいち理由を求めたらたいへんだ。

 

 こういう考えを意識的に抱くのは、きっとやることなすことに意味を求めていた時期があったからかもしれない。おもしろいと思えるものしかそばに置きたくなかったし、会いたいと思える人しか会いたくなかった。そして、それで行き詰まりをおぼえた瞬間をあとからボロボロと経験したからだろう。

 

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 どういうわけが存在するひとつの物事があり、それを拒む理由もない。

 

 そんなときに「まあそこに置いておけばいいじゃないか」という判断をくだすのは、想像するよりもちょっと寛容さが必要らしい。けれど、その寛容さが心を豊かにしたり、思いがけない果実をもたらしたりもするものだ。理由がなければシンプルにすることが好まれがちなご時世で、理由もなくごちゃごちゃといろんな物事を抱える方向に舵を切るのも、なかなか風情があっていいと思うんだけどなあ。