簡単に人が気になるし話は短い方がいい

ときどき困ってしまう習性がありまして。


なんのかんので周りにいる人を分類すると次のようになると思うのですね。

A.一緒に居て楽しいしめっちゃ気になる人
B.一緒に居て楽しいお友達
C.特に話が合うわけでもないけどめっちゃ気になる人
D.好きでも楽しくもないんだけどわけあって付き合いがある人


とりあえずDは仕事だの趣味だの何かのコミュニティの関係で居るだけなので、ストレスに気を付けてほどほどに付き合えばよいとして置いておきます。

んで、Aは今のとこ居ないけど、現れたら早急にお付き合いしたい。
一緒にいて一方的に楽しいとかだったらなかなかしんどいけど、自分にも人並みの社会性があるらしく、自分が楽しんでお付き合いをさせてもらってる人は、相手も相応に楽しんでいただけているらしいので、とりあえず誰かと一緒にいてああいつも楽しいずっと一緒に居たいとか思いたい。早急に。

Bな人もいろんな顔が浮かんできてありがたい。お友達だから会えないことについて過度に執着することもないんだけど、どっか遠くに行ってしまうとか、わけあってもう会えないとか、そういうことはあんまり考えたくないな。一緒に歳を取れる人は、ひとりでも多くいて欲しいなって思う。


実はここまでが前置きなんだけど、問題はCなんですよ。
なーんか最初はなんでもなかったんだけど、付き合いが深まるにつれてどんどん気になってくる、とかって感じだったら苦労はないんだけど(それはそれで苦しみがあるのは承知してるけど省略)、ふとした拍子になんか病的に好きになってしまって、でもやりとりをしても実際に会ってもあんま楽しくない、けど会いたい、みたいなことがたまにあります。本当に困る。

まあだいたい一過性だし、気になってる人がいることによってあわよくば食欲が落ちてダイエットになったりもあるけど、うっかり付き合ってみたり、それ以上になんかよくない関係になってみたりしたら怖いなあって、単純に思います。もろもろが合わない人と付き合うってよくあるらしいし、それがこじれてすごくよくないことになるのもなんとなくわかる。なんかすごい抽象的な書き方だけど、「こういう嫌なことがあってなんで一緒に居るとしんどいんだけど、なんか付き合ってる。」みたいな話を聞くと、ああこういうことかって思ったりします。

なんでこういうことが起こるかなんてのは学者じゃないからわからないけど、寂しくて誰でもいいからそばに居て欲しいって時にある話なのかなってなんとなく思ってます。

誰かと一緒に居たい、というのは決して寂しいから考えることではなくて、いろいろと充実してて特に寂しくもないし、普通にひとりでも楽しく生きていられるけど、それでも誰かと一緒に居たいってスタンスで居たい。

…なんかもっともらしいまとめ方になっちゃったなあ。

やだやだ。体の節々がかゆくなりそう。

 


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過剰なアナウンスが苦手になってしまった今日この頃。

電車の車内放送なんかは最近自動化が進んでスマートになってきてはいるけど、それでも乗り換え案内なんかは居るのかなって思ってしまう。人が集まるイベントごとなんかも、四方八方からいろんなことを放送されるとげんなりしてしまう。いちいち聞いてらんないってと。音楽フェスはそもそも音楽の爆音前提&アナウンスしなきゃいけない対象が多すぎるからか視覚情報重視なのがありがたい。

人間が発する言葉にはすべてなんらかの意図があると思う節があって、必要性がないアナウンスを聞くと、この声の主は単純に親切心が旺盛なのか、無音の空間が落ち着かないのか、はたまた自分の声をとにかくバラまきたいのか、ついいろんな勘繰りをしてしまいます。

アナウンスに限らない話だけど、「話しすぎる人間は他人の想像力を侮辱している」というネイティブアメリカンの言葉が、自分のひとつの主義になっています。(実際にインディアンから聞いたわけもなく、ツイッターランドでどこからか流れてきたわけだけど)

おそらく、「そんなこと言われなくてもわかってるよう」って気持ちが根底にあるからこそ、「本日たいへん混雑していまーす!場内では走らないでください!スリ・置き引きにご注意ください!ごみはお持ち帰りください!」みたいなのが延々流れる空間が苦手なのかなって思ってしまいます。だって自分はいわれなくてもやってるし、そのさなかに「えー急ではありますが10分後に会場閉鎖します」みたいな重要な情報(どんな状況かわからないけど)を聞き逃したりするし。

けれど、そもそもそういう過剰なアナウンスが存在するのは、もちろん過剰な親切心とか肉声バラまきたい欲もあるとしても、その空間で価値観の共有がなされていないからかなって思います。

だってさっきの例だと、場内で我先に走る、スリ・置き引きをする(それに用心しない)、ごみをその辺に捨てるなど、その場の大多数の人と価値観が違う人がそれなりに存在していて、それゆえに過剰なまでのアナウンスをしなくてはならなくなってるわけであると。

だから、自分としては考えられないことをする人がごろごろいることを察知してしまうから、うるさい注意事項を聞くとつい警戒してしまうし苦手にもなるわけですね。


転じて、あまりあれこれ話しすぎることがなくても成り立つ関係って尊いですね。

一緒にいるとき、同じタイミングで人に道をゆずる、あれこれ話さなくても同じようなご飯屋さんに入りたくなる、なんか表情で疲れてるとかわかる、殺しやサギはあまりやらない、共有スペースにある所有権不祥なエクレアを勝手に食べない、とか。

けれど、この世では常識も倫理観も違うたくさんの人たちと生きていかなきゃいけないから、仕事の時とか約束事の時は打ち合わせをシンプルにしすぎないで細かく確認しなきゃいけないし、ナントカ法とかアレコレ条例を守らなきゃだし、24時間テレビを見て「あれは偽善だ」と意識を共有する必要がある。社会的な一種の手続きなのかな。

せめて、家に帰ったら最低限のルールしか必要としない関係の人と、のほほんとお茶でも飲みながら暮らして行けたらいいなあって思います。

 


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 それにしても、今日も話しすぎてますね。