繰り返される諸行無常

 

「繰り返される諸行無常 よみがえる性的衝動」

 

 向井秀徳が曲中やライブで頻繁に発するこのフレーズ。最初に使われた曲もあるにはあるけれど、あまりに多用されすぎているために、特定の歌詞というより向井秀徳を象徴するフレーズとして人々に定着している。本人もまた、このフレーズについて明確に解説することはあまりないようだ。少なくとも自分は雑誌のインタビューやライブのMCで、本人の口から意味が語られることを聞いたことがない。

 

 明確な位置づけが浸透するわけでもなく、ただフレーズだけが長い年月にわたって繰り返し使われ続ける。かれの楽曲やライブパフォーマンスに触れ続けたファンにとって、いつしかこのフレーズが耳に深く馴染んだ存在となる。誰もが意味をよく解していないなんてことは問題にはならない。ひたすらに繰り返されたフレーズは、人々の記憶にたしかな存在感を放ちながら留まるようになるのだ。

 

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 他者とのつながりを揺るぎないものにしたいとき、繰り返すことで得られる強度ってあると思う。

 

 たとえば、何ヶ月か先に一緒に仕事をする予定だとか、遊びに行く約束が出来たとする。予定の日までちょっとばかし時間が開いてしまって、放っといても当日は迎えられるけれど、それだけではどうも心もとない。何か調整不足が見つかるかもしれない、そもそも相手が約束を忘れてしまうかもしれない。そんなふうに思うと、せっかく設けられた予定が浮き草のように漂流するのが心配で、おれは何かの約束を抱えている人には用事を見つけては連絡を取るようにしている。

 繰り返される連絡によって、「ああ、本当にこの人と一緒に取り組むんだな」というモチベーションが会わずとも高まっていって、当日が近づく頃には頭のなかを占める最重要予定にのしあがる。少し手をかけてひとつの予定を磨き上げて、キラキラと輝きを放った当日を待つ感覚はなかなか心地よいものだ。

 

 もしかしたら誰かと出会うこと自体は、ごくありふれているのかもしれない。ただ、その出会いへの目配せを繰り返して強固にできるチャンスは、そんなに転がっているものではないらしい。

 

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 おれがやってきたことも、長い付き合いのものはそれなりの説得力を持つようになった。

 

 髪型をセットすることも、ジョギングをすることも、楽器を演奏することも、目も当てらないような状態で始めてから何年も習慣的に繰り返してきた。それがいつの間にやらマシな出来栄えになってきて、今ではそれなりに自分を喜ばせることができる要素になっていった。

 ゴールを設けて逆算して進めていった物事もあれば、あてもなく積み重ね続けたら遠くにたどり着いた物事もあるものだ。おれはどちらかと言うと後者の方が得意みたいで、ときには自分も周囲の人も「なんでやってるの…?」ということですら、いつしか山のように積まれた場数を見てその価値を納得できたことがある。そんな成功体験を忘れられなくて、物事の繰り返しという行いに希望を抱いているのかもしれない。

 

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 今回のエッセイ集もこれでおしまい。

 誰かから書いてほしいと言われたわけでもなく、自分でも「本当にやるの?」と困惑しながら、時間と頭をずいぶんと使いながら文章を考えた。なんなら、パソコンに向かうたびに舟を漕いでいた気すらする。毎度ながら、もっと他のことに労力を使ってもよかったのではと思ったりもする。

 

 けれど、1ヶ月前に用意したお題のすべてに文章をつけ終えて、なんだか単なるエッセイが30本ある以上の説得力をつけられたように感じる。言いっ放しにしたいことをグッとこらえて整理して、はてなブログというショーケースに毎日ひとつずつ時間をかけて並べ続けた。おれの思いつきもなかなか筋が通っているではないかと、3シーズン目も順調に自画自賛をしている。

 

 あてのない文章書きの繰り返しは、おれをどこへ連れて行ってくれるんだろう。まあどこでもいいけどさ、その場所の暖かさを書き留められるくらいには腕を磨いておきたいものだね。