もう一段階深く想像ができれば、

 この人はあらゆることに納得できるのに。

 

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 かれが弱っている人の話をよく聞くのは、

 結局は自分の好奇心を満たすためなのか。

 

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 長きにわたって誰かを見つめているうち、その人の思考にある枠の強固さを思うことがある。たとえ自分にとってはひょいっと転換できる発想でも、きっと当人はずっと脱することはないのだろう枠。どうにもネガティブな要素ばかりに目が行きがちな性分もあいまって、えてしてそういった気づきは肩が落ちてしまう性質のものばかりだ。

 

 何物にも縛られないんじゃないかというくらい自由に、あるいは何かにこだわることもなく日々を過ごしている人もたくさんいる。ときどきで物事へのこだわりを持たず、自由に一番いい選択を、あるいはラクな選択をスイスイと選んでいくようなね。

 その一方で、本人も気づかないうちに物の考え方にプロテクトがかかっていて、ステップを踏もうにも足がもつれてしまっているような人がいる。

 

 いや、本人は軽やかにステップを踏んでいるつもりだけど、傍目から見てヒヤヒヤするような足の運び方をしている人と言った方がいいか。ごく自然に自分を傷つけてみたり、あるいは誰かを傷つけてみたりするも、それすらも呼吸と同じような扱いだから気にしていない。指摘しても首をかしげられるくらいだ。

 

 そして困ったことに、どこかに違和感があろうとも愛らしい人間のひとりなのだ。ときどきもたらされる心のざわめきに目をつむれば、かれらは親切でチャーミングに付き合ってくれる。手放しの共感を喜ぶ瞬間が山とあるなかに、何か変だな?と思う瞬間が紛れ込む。そのたびに、ここはきっと長年この人についてまわるクセなのだと思ってしまう。

 

 ときに、どうにも直しようのない思考の枠組みを持ち合わせていることを含めて、その人を愛し続けることができるのだろうか。「ズレた間の悪さも、それが君のタイミング」なんて歌われるくらいだ。もしかしたら自分との相性が合わなくて、この人は違和感のある行動を取ってくるのだろうか…なんて悩んだこともあったけど、そんな人はたいてい誰にたいしても同じ行動を取っていた。そうなると、本人に深く根づいた性質まで、「そこは直した方がええで」なんて言葉をかけることはできない。他者に変化を促すだけの自信だとか傲慢さを、おれはもう振り回したくないのだ。

 

 でもどうだろう、 一癖ある性格を知ってまでかかわりを続けた結果、ある程度は深く付き合うことができるようになったことも往々にしてある。どうやらおれは、他者のややこしい部分を解していく過程がそれなりに好きらしい。自由に思考できる人は魅力的だけど、どうにも後に残らないことがある。

 

 そしてまた、自分も逃れられる見込みがない思考のループに囚われてばかりだ。おれが周囲の人を理解できなくて首をかしげている頃、向こうもまたおれの言動を見てクエスチョンマークを浮かべているのだろう。でもどうしてか、それらを放置したり忘れたりする手間をかけて付き合いを続けている。

 

 もしかしたら、死ぬまで誰かと腹を探り合っているのかもね。