底知れなさ

 人のすべてを知りつくすなんてことは、果たしてあるんだろうか。

 

 自分は、ないだろうなと思う。どんなに好きな人でも、あるいはどんなに一緒に過ごした人でも、「この人のことなら、なんでも知ってるよ」なんて、とても言えない。もしかしたら、おれは「なんでも知ってる」のハードルが高いのだろうか。「お互いのことを知りつくしたパートナーシップ」みたいな状態への憧れはあるけど、それは親しくて深い関係性へ向けられてというより、「知りつくした」と言い切れる自信と言うか、思い切りのよさというか、そういったものへ向けられたものかもしれない。

 

 おれが出会ってきた歴代ウマの合う人たちが、揃いにそろって知識人ばかりだったせいもあるだろう。どうにも自分とウマが合う人は、みんな途方もないくらい大量の興味関心を抱えていて、顔を合わせれば、そのときどきにかれらがハマっている物事について、べらべらと楽しげに語ってくれる。

 

 無論、おれはそのすべてを理解できるわけではないから、心からの共感を差し出すことはできない。けれど、そんなことを気にするような人は、幸か不幸か全然いなかった。誰もが、「どうしてわかってくれないの?」なんてことは言わない。分かったような分かってないような顔をしているおれを相手に、かれらはつらつらと話したいことを話してくれる。そんなときに見せてくれる、真剣かつ屈託のない表情が、いつも好きだった。

 

 けどまあ、よう考えたらおれも全然そういうことしてるわな。おれも話が全部伝わるより、伝わっていても伝わってなくても、自分の話の相手をしてくれる人が好きだ。なにぶん気にしいなもので、歳を追うごとに話が相手に響いてるか顔色をうかがう場面も増えてしまったけれど、心を許したり、お酒が入ったりしていると、話の内容も滑舌も気にしないで、オロロロロロロロとしゃべり倒してしまうこともある。そして気持ちよくなって一休みすると、今度は相手がオロロロロロロロと話し出す。そんなふうにして、時間がダバダバすぎていくような日は、なんだか相互理解に資する交流活動が出来たようでうれしくなる。これが次の日になって、話したことも聞いたことも覚えてなかったとしても。

 

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 では、自分のすべてを知りつくすなんてことは、果たしてあるんだろうか。

 

 もしそんな状態があるとしたら、ちょっとつまらないんじゃないかなと思う。いつ、何を思いつくかわからない、突然思考の波がジャバジャバとあふれてくるような自分に振り回されつつ、そんな状態と折り合いをつけて、おれは日々を過ごしている。とくに選んだわけでもないが。

 

 もしかしたら、おれが自分自身や他者に求めていることは、「言動のすべてを知りつくした安心感」より、「理解しつくせないけど、なんだかんだいい表情を見せてくれる安心感」といったところなのかもしれない。生きていれば、未知のことにもまあまあ遭遇するのだから、せめてその捉え方が信頼できるものであれば、どうってことないんじゃないかな?

 

 おお、なんだか落ち着きのない人生が待ってそうだぞ。