僕がまだ人だった頃

人という字は支え合って人と書くという。

いつか、人と支え合うことをやめてしまったら、
おれは、人ならざるものになるんだろうか?


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ずっと前、好きな人と一緒に映画を観に行ったときに、感想が言えなかったことがあった。

別に相手に合わせて観に行ったわけじゃない。自分も相応に興味があった作品だったし、作中もしっかりと感動していたのだ。

だけど当時、自分が創作物に触れたときに、どこでどんな風に心が動いたか、伝える語彙を持ち合わせていなかった。

感情とはまことに水物で、ほんの一刹那のうちに音もなく流れ去ってしまう。

仮に涙があふれても、その涙を拭いきるまで、昂った感情を抱き続けているだろうか?

心が動いた時、完全でないにしても表現をする努力をしなければ、そばに居る人や、いつか未来の自分と対話することが出来なくなる。

感想を言えないおれをみて、彼も自分の感想を対話のステージに上げるのをやめた。そして、少し寂しそうに、別の話を始めた。

一緒に居るのに、孤独だった。

それからやっと、おれは自分の感情表現を磨き始めた。物を言えないことで生まれた分断があまりにグロテスクで、到底看過出来なかったんだよ。


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誰かの内なる気持ちを知るために、
対価として自分の気持ちを出せるようにしたい。

出来なくても生きていけるのにね。


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ちゃくちゃくと歳を重ねるうち、人生とは虚無であるということを、静かに受け入れている様を見ることがある。自分にしても、周りの人にしても。

人って割と死なないし、何かドラスティックな変化もそうそうあるわけではない。

何がどうハッピーになっても、あるいはややこしくなっても、朝日は毎日しっかり昇る。幸せなこととそうでないことが、その人が感じる割合で打ち寄せてくるだけだ。

動く物事は動くし、何もない時は何も起こらない。

考え方と身体はだんだんと硬直化を始め、今いる領分を受け入れ、守ることを考える。

それでもおれはなんだけど…、「こんなことをしても虚しいだけだ。けれど、やらずには居られない。」というマインドが芽生えることがある。虚無で覆われたはずの、感性の上に。


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人の気持ちなんて知らなくても生きていけるのに、

どうしてまだ、誰かの気持ちを知りたいんだろう。


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いつの間にか、ある程度何をしても生きていけるようになった。

与えられた仕事をこなし、自分の機嫌をとり、ただ持ち場を守っていれば、少なくとも生活はしていける。留年とか就活、自己嫌悪とか実らない片想いを人生の一大事にして、ぶるぶると怯えることはもうないのだ。

ああ、これで安心だ。素晴らしい未来を迎えられた。あとは好きなゲームでもして、山のように本を読んでも、誰にも文句を言われないぞ…。

それでもどうしてか、おれは何かになりたくて、今も歩みを止めることが出来ないのだ。


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何かになりたくて。

その根源にあるのは、誰かを求める気持ちだった。


優しい人を素敵に思うから、
自分も優しくなりたい。

物知りな人を尊敬するから、
自分も多くの物事を知りたい。

人に支えられたいから、
自分も誰かを支える力がほしい。

隣で笑ってほしい、泣いてほしいから、
自分も誰かのことで大騒ぎするんだ。


しかし、ふと息が切れたときに虚無に襲われる。あれ、このままでもいいんじゃないかって。

おれが何を持とうとも、持たずとも、そばに誰が居るかとは相関しないよな。居るべき人が、然るべき形で居る。居なくても、生きていける。

ああ、だとしたら。

離れゆく人の背中をみつめて、人と支え合うのを諦めることだってあるよな。もうじきにおれも、そんな時を受け入れるのだろうか。


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誰かに対して「こうあって欲しかった」という怒りを、もう長いこと抱いていない。

自分に対してはまだ、怒ることがある。


減りつつあるが。


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おれがいつか、人ならざるものになるとき、
誰かを求めて得た能力は行き場を失う。

そしたらやっと、出来ることを自分に還元出来るのかな。

それとも、また違う欲求に身を任せるのだろうか。


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めまぐるしく変わる日々を
いつか見下ろした時に、

古い屋上で少し泣いた
僕は正しいと思うよ。


冬の日。白い息。青空に浮かんだ。
むきになって咳き込むくらい、
硝子を曇らせてたね。

冬の日。北風に笑われてかじかんだ。
冷たい手が優しかった。

僕がまだ人だった頃―。


冬の日 / cali≠gari