裸の王様
最近、フェイスケアにハマっている。
新型コロナの流行り出しで、今よりも外出がはばかられていた頃、ちょくちょくチェックしていたYouTuberがスキンケア用品の紹介をしていて、それからいろんなものを試すようになった。
泡が濃密すぎて洗顔中に窒息しそうになった洗顔料、「肌から悪いものを取り出すぞ!」という強い意志を感じる泥パック、同じような狙いだけど優しい香りのオイルクレンジング剤、、、そんなものをひとつひとつ試すのが楽しかった。
スキンケアやちょっとしたメイクについて、知識の下地が出来てくると、普段からメイクをしている人と会った時の話題にも出来るようになった。自分を良くしようとするとための話題だからか、誰と話してもいつも明るい気分になれるのがうれしい。近いうちに、高校の頃のバンド仲間の女子たちと、美容コスメと薬膳料理を求めて新大久保に繰り出す予定すら入っている。ウケる。
今のところ、それまでの単なる興味と、ちょっと見た目に清潔感が出たなという成功体験を原動力にして、せっせと顔面にBBクリームとコンシーラーを塗りたくる日々なんだけど、こんな風に見た目が仕上がっている自負があると、自分への自信につながったりするんだろうか。
それとも、「ちゃんとケアしている時は最強!」という条件付きの自信になるんだろうか。
おれは小さい頃から「自分なんか」という考えが強かった。いろんな要因で人と相容れないことがことが多くて、自己肯定感が一向につかない状態が続いていた。その反動があって、いつからか自分自身や他者に対して、自分がよく見えるように、いろんな物事に関心を持つようにした。
不純すぎる動機の割には、結果としていろんな物事がすきになれて、人と分かり合えたなって感じる瞬間も増えた。自分の魅力を高めるために始めたはずが、気が付いたらその物事そのものの魅力に取りつかれて、今は追いかけたいものがいっぱいある。そんな日々を楽しくおもう。
けれど、肝心の自分に対するマインドは、「自分がすき!(ただし自信がある物事をやっている時に限る)」という着地点にとどまっている。何かの行動によって得られた自信は、その目標にしか作用しなかったのだ。
おれがたどり着きたかった境地は、自分自身を肯定するのに、自分が何を出来るか、何を持っているか、そんなものが関係しない状態だったらしい。何もなくても、ただ笑っていられるのなら、どんなにいいんだろう。なんとか笑おうとして、逆につらい結果になった出来事なんかを、ただただ惨めだったなって思い出すことがある。
何を持っているかとは別に、存在そのものを肯定したいという思いは、周りにいる他者に対しても抱いている。
誰かに関心を持つきっかけとして、その人はどんな物事がすきかとか、そこにどんな情熱があるかは気になる。もし自分との共通点があれば一盛り上がりするし、そうでなくても相手の人柄を推し量る要素になりえる。
けれど、同じ持ち物を持つ人がごまんといるなか、なぜだかその人に惹かれてしまう事実がある。別に恋愛感情に限らず、あらゆる関係において「なんかこの人はすきだな」という思いがあって、そんなものを見つけては、そっと掬い上げていきたいのだ。
そういうこと考えるようになってから、自分や誰かの持ち物とか行動に好意を示すことはあれど、「だから自分がすき!あなたがすき!」と結びつけて言わないようになってきた。
何を持っていても、自分は自分だし、あなたはあなたなんだ。しいて言えば、自分なり誰かなりが、ちゃんと自分らしく過ごせているのなら、素敵だと思いやすいかなって程度だ。
まあでもあれだよね、持ち物と紐づけないで、自分を、そして目の前の人を、ただ肯定するには、一体どんな表現の仕方があるのだろう?もしかして、みんな自然に出来ているのかな。今度会ったら、こっそり教えてほしい。
他者を肯定するひとつの表現として、相手への思いに共感するという行為があるとおもう。誰かの行動や話について、そのうちにある動機を観察するのだ。
おれは物事をあれこれ先回りするクセがあって、それが一つの特技だと思っていた。自分は人の話への想像力が豊かで、物事や他者への理解が人よりも早いんだって。
ところが、それこそが大きな無知であった。先回りの思考はあくまで推測であって、推測のパーツを構成する部品のなかには自分の勝手な思い込みが少なからず含まれている。そして、その思い込みは「自分だったこう捉える」という、主観的な考えでしかないのだ。
ああ、おれは目の前にいる人を慮って思いを巡らせたつもりが、ただ自分の思いたいように解釈をして、本質的には相手を理解しようなんで、これっぽっちも考えていなかったのだ。
「秋の風が涼しいね。なんだか寂しい気分だ」
―こんな話を誰かとしたとき、その感覚の根っこにあるのは、生まれついての性分であるのか、何か過去にリンクする記憶があるのか、いま何か思うことがあるのか、、、そして、その先にも枝葉のように、本人の自覚を軽く追い越すくらいの思索がある。
そんな想像はつくのだけど、あくまで想像でしかない。ただ、その人と自分は、その時センチメンタルな気分になっているだけなのだ。やることがあるとしたら、その気分を尊重するだけなのだ。
もしもっと、他者への理解で胸を満たしたいのなら、自分の引き出しから推測という調味料をドバドバかけるんじゃなくて、もっと一緒に過ごして、話をして、表情を見て、相手の情報をコツコツ増やすものなんだよね。
自分のおもいたいように想像するのって、相手のことを理解できないもどかしさから、手っ取り早く逃れる手段なんだと考える。おれはいつも、目の前にいる人のことを、一刻も早く深く理解しようと躍起になってしまう。そこで焦りすぎて、すぐには理解できない現実の相手より、脳内に浮かんだイマジナリーを選んでしまうのだ。
本当に誰かを理解したいのなら、それ相応の時間と胆力を割かないといけない。余計な解釈をぐっとこらえて、想定外のボールを何発も受けつつ、相手の言葉や表情を頼りに、どんどん相手の姿を更新していく。人をひとり理解するのって、そんな簡単ではないのだ。
けどさ、もしこれから自分のことを知りたいって人が現れたら、その過程すら楽しませたいな。
知れば知るほど、距離を感じる人がたまにいる。
せめて自分自身には、そんなことがないように。