権威からの逃走

 

 使いたくないけれど、つい口をついて出てしまう表現に「普通は~」というものがある。「まあ普通はああするべきだと思うんだけどさ」「おれも普通にあっちを選んだけどさ」なんて、それこそ普通にありふれた言い回しではあるのだけど、どうしてわざわざ「普通」という価値観を付着させるのだろうと思う。べつに普通かどうかじゃなくて、自分が思う正しさが担保されているかとか、その選択をした状況がどうかとか、もっと説明がつく評価軸で物事を考えたいんだけどな。

 

 もしかして、説明がつかない物事だからこそ「普通は~」なんて言ったりする…わけない。ちょっと言いかえれば「安いから」「効率的だから」「(なんらかの根拠をもとに)正しいから」なんて言えたりするようなもの。あくまで、いちいち説明してらんない要素を省略して、話のテンポをよくするために使われるのが「普通は~」なのだ。うんうんそうだそうだ。言葉狩りをやめろ~!

 

 なんて「普通」の肩を持ちつつ、納得なんてさらさらしていない。じつは前段に示した「普通は~」の言い換えになりそうな例示を打つ途中、「みんなもやってるから」というフレーズを打っては消していた。しかも3回も。そう、これこそが「普通は~」というフレーズを忌避する理由なのだ。何かをするときに、その価値判断を風潮とか空気といったふんわりとしたものにゆだねたくないのだ。ときにはみんなして間違えてるくらいだし。まだ特定の他者を指して「○○もやってるから」と言った方が、根拠が見えてマシに思えるくらい。

 

 そもそも、「普通」であることを根拠に何かの行為が認められるとしたら、「普通」なんてものはとんでもなく権威的だ。意見を述べたあとに「それに、普通はこうするしね」なんて付け加えただけで、途端に反論することが難しくなる。

 

 とある権力者による差別発言が問題になった際、その発言内容もさることながら、「ここにおられるみなさんなら分かると思いますが」と、あたかも同調できなければこの場にいる資格はないと暗に述べるようなひとことがあったという。

 加害性を帯びた間違った考えであったとしても、発言者そのものとそれを支持する場が放つ権威により従わざるを得なくなる。もしかすると正しいとすら思いこんでしまう。そんな状況が存在することに身震いしたものだ。

 

 おれは、自分の意見をつよく主張することを好まない。正確に言うとしたら、自分の意見で人を言い負かすことを好まないのだ。意見はそれぞれが持っていて、歩みよったり譲り合ったりすることはあれど、完全に塗りつぶすことなんてない。ましてや、自分の意見を補強するために別の権威を持ち出して、意見ではなく権威で誰かを服従させる場面なんて、考えるだけでおそろしい。

 

 それでも、「普通」は強い。

 ここまで主張してもおれは「普通」をうっかり3度も使おうとしてしまった。「普通」は正しいことが多いし、間違っていたとしても自分だけがその責任を問われるわけでもない。適切な判断ができる材料が無ければ「普通」に身を委ねた方が正解であることは確かなのだ。

 

 ただし、「普通」とは権威そのものであることを忘れてはならない。手を伸ばせば情報があふれ、気になることを語り合える人がいて、なにより生きてきたなかで蓄積してきた経験もある。そんな要素たちをどろどろに煮詰めて、自分なりに導いた選択ができるはずなのだ。

 

 その結果、ごくありふれた選択になったとしてもいいだろう。だって、それはもう「普通」ではないからね。