つながりたい

 

 もし、何らかの事情で余暇として使える時間が無くなってしまうとしたら、自分は何を恐れるのだろう。

 原因はなんだっていいし、なんだってある。家族の世話をする必要が出てきた。ハードな職場に移ることになった。自分の身に深刻な問題が発生した…。そんな状況はいくらでも考えられる。

 

 どこか遠くに出かけられないのは残念だけど、まだ割り切りがつくような気がする。映画や音楽や本が楽しめないとしたらちょっときついけど、まあ全滅ということはないだろう。では、ごく身近な人以外との交流が絶たれることは…。これはイヤだな。結構しんどそうだ。なんでかって、自分の行いには小さくない割合で、誰かとのつながりを志向して実行に移したものが存在するんだもの。

 

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 子どもの頃から、誰かに用もなく声をかけることがとても苦手だった。たとえ、仲良くなった人であっても。

 一応あいさつくらいはできるけど、だらだらと他愛もない話をするなんてことがなかなかできない。自分の話をだらだらとするにしても気負ってしまうし、かといって相手の話をうまく受け止められる自信もない。ついつい、「こんな話し方でいいのかな?」なんてことを考えながら話しては、緊張感が相手にも伝わってしまいぎこちない空気になる。そして、そんなことがまた気になってしまう。

 

 会話がいっこうに得意にならない身でも、人とのつながり自体は渇望していた。どうにかして誰かとかかわるきっかけがほしい。そんな自分がとった行動は、共通の話題やタスクをとにかく集めることだった。流行りものの情報を集めるのも慣れなかったけれど、そのなかで好きになれるものを見つけるようにし、一緒に取り組めることがあればどんどん飛び込んだ。

 

 そのかいあってか、今ではそれなりに人とのつながりも持てているし、むしろひとりで過ごす時間がたりないと感じることもある。けれども今度は、自分が得たつながりは何かの役割を演じたうえでしか保てないように見えてきた。ドラムを叩く人、ゲームの話ができる人、取りまとめ役をやる人…、そんな役割が漂白されたら、どれだけの人がつながりを保ってくれるのだろう。あるいは、自分の目の前から消えていくのだろう。

 

 そしてあるときに気づく。おれはとるべき行動は誰かとつながれる役割を得ることではなく、つながりを保ってくれる人を探すことだったのだ。思い返せば、誰の気を引くでもなく振る舞っていた頃でも、付き合いを持ってくれた人はそこここにいた。けれども、そんな人たちをいつしかあまり大切にできなくなってしまった。なぜなら自分自身もまた、なんでもない人よりもどこかに光るものがある人とつながることばかりに価値を見出してしまったからだ。

 

 なんとなく出会った人こそ大切に扱うべきだったのだと気づきつつも、役割を身にまとって他者に近づいていくうちにそれは脱ぎ捨てられるものではなくなり、やがて他者にも求めてしまう。何も持たずに他者とつながるときに見え隠れする退屈さに怯えるようになり、おれはすっかり消耗し合う人間関係に身体を沈めることになったのだ。いまになってもなお、おれは誰かと一緒にできる物事が見つからないとき、あるいは誰かと共有できるコンテンツがないとき、このままひとりぼっちになってしまうと真剣に落ち込んでしまうのだ。

 

 本当は、ときどき誰かとただボーッとしたかっただけなのにな。なんだか、そんな時間の過ごし方すら恐れてしまっているよ。相手が何もない時間に価値を見出さないような人だったら別れが待っているだろうし、先に自分が価値を見失ったら自分からだんだん距離を取るようになる。考えるほどに一筋の冷たい風が吹くような予想を立ててしまうくらいには、おれはいろんな人との仲を疎遠にしてしまった。

 

 それでもつながりへの欲は消えそうにない。

 

 ああ今週末も約束が入っているな。

 そこで会う人とはあと何回会えるのかなあ。