好きに理由がないのなら

 

 服装や髪型に気をつける、相手の話を丁寧に聴く、何か気の利いたプレゼントをする…誰かに好意を持ってもらうために推奨される行動といったら、おおむねこんなところだろうか。その相手はというと恋愛がらみのことが真っ先に頭に浮かんでしまうけれど、これから友達になりたい人や一緒に仕事をする相手、すでに関係が出来ている人も対象になるだろう。

 

 好意をかきたてるメソッドが無数に流布している一方、何をどうしても他者から気に入ってもらえないこともある。自分がとった友好的な態度を軽く扱われたり、あるいは困惑されてしまったり、誰もかれも自分を好きになってくれるわけではない。自分ができるのはせいぜい思いつく限りの方法で好意を示すことまでで、その後は相手に任せざるを得ないものだ。「こんなことをすれば、相手は必ず自分を好きになってくる」なんてことは、ありえないのだ。

 

 そんなふうに考えていると、冒頭で示したような行動は好意をゼロから芽生えさせるものではなく、相手がたまたま持ち合わせた、自分に対する好意を維持または増幅させる性質のものに見えてくる。相手がわけもなく抱いた自分への好意があってこそ、相手は初めて自分の行動に目を輝かせてくれるのだ。たとえ相手の持つ気持ちが初めは小さくとも、努力と成りゆき次第でいくらでも大きくなった例を何回も見てきた。どこに自分の行動が作用するか不明瞭だからこそ、他者にたいして抱く好意というものは本当につかみどころがない。

 

 これが好意と逆の感情にも作用してしまった、後ろ暗い経験を思い出す。

 というのも、自分にはときどきなんとなく苦手になる人がいるのだ。気がついたら、そんな人の一挙手一投足に心がざわめき、相手が慕ってくれたとしてもうっとうしく思ってしまう。別に先方が何か悪いことをしてくるわけもないのに自分ばかりが落ち着かなくなり、やがて距離を置くことになる経験を何度かしてきた。わけもなく好きになる人がいるように、わけもなく苦手になる人もいるのだ。実際、好きな人相手なら全く逆の展開だからね。

 

 もしかすると、これまで自分が近づけた人も遠ざけた人も、かれらがとってくれた態度は案外みんな同じようなものだったのかな。さまざまな場で出会った個性がある人々が、それぞれにかれらなりの好意を向けてくれていた。そのうえに自分はあぐらをかいて、届いた好意を受け取れるか理不尽にジャッジしていたとしたら、あまりの傲慢さにおそろしくなる。

 

 それでも、おれは自分が抱く感情のすべてをコントロールしきれない。好きになりすぎて苦しくなった人を遠ざけたこともあれば、苦手に思った人をなんとか好きになろうとして挫折したこともある。いまになってようやく、相手を傷つけないように配慮するのが精いっぱいというところまで持ってこれた程度だ。

 

 たぶんこれからも、おれは誰かからに好きになってもらう努力も、あるいは誰かを好意的に見る試みもずっと続けていくのだと思う。また、その対象は自分自身にもなりうるだろう。対他者と同じくらい、自身のことを好きでいたいし、好意的にとらえられるような行動をかさねていきたいものだ。

 

 けれど、好きも苦手も一切の理由を挟まない状況が往々にしてある。誰かに永遠の愛を誓ったところで、あるいは自分自身のことを完全に認められた瞬間を迎えられたとて、次の日にふっと好意が消えうせる可能性だってゼロではない。ときとして理不尽なまでに流転する感情の前にして、確実に抗う方法なんてありやしないのかもしれない。

 

 ま、そんなもん知るかってんだ。

 いま愛したい対象を、全力で愛するだけさ。