いなくならないこと

「仲良しのおばが要介護になってね、わたしは何ができるんだろう?」

 

「あなたがいなくならないことが、大切だと思う」

 

いつぞやの友達との会話より

 

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 オトナになってから、いろんな人から好意を向けられていると感じる機会が増えた。

 

 「また会おうね」「あなたは信頼できる」「一緒にいるとなんだか心地よい」なんて言葉をかけてもらったり、さりげなく職場の机にお菓子が置かれていたり、おしゃべりに夢中になったあとに解散するのを惜しんでくれたり。

 

 これは別におれがモテているとかじゃなくて、年齢を重ねるごとに、好意を伝える方法をたくさん持っている人とかかわることが増えたからだろう。自分もまた、周りの人に親しさをおぼえた場面では、なるべく躊躇なく、その気持ちを表現しようとしている。もっとも、表現したい相手ほど、そう素直にはなれないわけなんだけど…。どうにか好意を表現する方法が豊かになるように努めているつもりだ。

 

 ラブが手軽に飛び交うラブラブな日常を生きるようになったものの、他者からつよい好意というか、愛情のようなものを受ける機会はそんなに増えているわけではない。これは別におれがモテてないからでいいんだけど、好意を表現する方法を知ってしまったがために、より強い気持ちを表す方法がわかりづらくなっている感覚も、またある。言葉は水物だし、お菓子は消え物。いくら別れ際に愛惜があっても、次に会う予定を立ててなかったりする。

 

 そんなときに思う、強い気持ちを表現したいならば、いなくならないことが一つの答えになるのかなと。

 

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 「あなたに会いたい」といった言葉を使いこなすようになるのと反比例して、実際に会いに行くことは難しくなった。仲のいい友達でも、月に1度会えればいい方で、気がつけば会わないままにどんどん時間が過ぎてしまい、気持ちも薄くて遠いものになってしまう。

 

 そんななか、言葉を行動にして、実際に会い続けられている人がいることは、とても尊いことのように思える。

 

 何もしなくても親しい他者が常にそばにいた子どもの頃には、もう戻れない。今となっては、会いたい人には主体的な意思をもって、会いに行き続けないといけない。もし、誰かと一緒に暮らしたとしても、それを続ける意思を持って気づかいを続けないと、居心地の悪いものになってしまうと聞く。好きな人と一緒に存在し続けることは、意思そのものなのだ。

 

 だからといって、頻繁に会ったり連絡を取ったりしなければならない、というわけではない。ましてや、一緒に暮らさないと深い関係になれないわけでもない。明日は会えないけど、来週は会える。来週は会えないけど、来月は会える。来月は会えないけど、来年は会える。そんな形で、親密であり続ける姿も考えられるのではないだろうか。

 

 もし、会えない時間があるならば、それを支えるような言葉をかけて、ときにはプレゼントを用意して、次の予定を考えながら、静かに意思をもって慕い続ける。自分もまた、そういったものを求める。そんなふうにして、誰かとの意識の世界で、はぐれないようにしたいのだ。

 

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 言葉は、ひとを「いま」から引き剥がしてくれるものである。言葉によってひとは時間の地平を超える。「ママ」という言葉を覚えた子どもにとって、母は目の前にいてもいなくて「母」である。犬は目の前にいてもいなくても「犬」である。

 

鷲田 清一 / 「待つ」ということ(角川選書)