ちょっとずつ

 おれはバンドではドラムを担当することが多いけど、ちょっとだけギターやベースを弾く場面もある。だから、「バンドのドラマーの人」と定義されると、モヤっとする。

 

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 前に観たある映画は、恋愛的に惹かれ合う人物たちを主人公に据えつつ、ちょっとだけ恋愛関係に関知しない登場人物もいた。けれども、ストーリー的にはかれらの存在がとても重要で、「恋愛映画」と定義するのは違うように思った。

 

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 友達がある日、「わたしにはちょっとデミセクシャルっぽいところがあるかも」と話していた。恋愛的な好意を抱くことはあるけど、身体の関係を持つまでの期間の短さにちょっとだけ違和感があるらしい。どちらかといえば、もっと精神的な結びつきを主軸におきたいのに。とはいえ、すべてがそうとも言い切れるわけでもないようでもあった。

 

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 おれたちが過ごしている今の時代は、新しい定義が次々と整備されている状況にあるらしい。さまざまな技能が整理されて多くの資格試験となったり、それまで認知されていなかった社会問題が形となったり。そして、さまざまなセクシャリティにも定義がついて、それによって自身の存在が許せたような感覚を得ることもあった。

 

 けれども、「定義されている要件は満たさないけど、心当たりはある」くらいの感覚を説明することは、まだまだ難しい状態にある。

 

 もちろん、定義がなさすぎて全く説明できなかったことが、たとえば7割くらいまでは説明できるようになったとしたら、それは大きな進歩だ。冒頭の例で言えば、ドラマーという定義があったから、恋愛映画という定義があったから、デミセクシャルという定義があったから、全く理解できない地点から脱することはできた。だけど、その定義を使うことで切り捨てられてしまう残りの3割の理解は、受け手の洞察力に拠ってしまうのだと思う。

 

 そもそも、自身が属すると思っているあらゆる定義について、全部きれいにあてはまる人なんているんだろうか。みんな完全ではない属し方をしている属性をちょっとずつ身にまとって、あるいは例外をちょっとずつ設定して、過ごしているのではないだろうか。

 

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 なにかの定義に当てはめて相手を理解しようすることは、基本的には相手を傷つけたくないという配慮が働いている。けれど、出発点は単純な好意によるものか、無難に収めたいという気持ちか、はたまた理解した気になりたいという欲かはわからない。少なくとも、その配慮については一定の評価はしておきたい…のだけど、残念なとらえ方は、かえって相手を傷つける。

 

 「こういう人には、こういうふうに接すればいいんよね?本とかネットに書いてあったし」というのは、知識を得ただけの思考停止であり、自分の判断にたいする責任回避のように思ってしまう。自分の知ったことで相手を知った気になるのは想像でしかなく、本当のことは相手の言葉や行動から導かれるものではないだろうか。

 

 属性にかんする定義は、誰かを理解するための道具とか過程でしかなくて、ゴールではない。実際の人物が抱える事情には、細やかな例外があり、複数の定義を内包することがあり、明日にはまったく違う定義に変化することがある。もし、他者を誠実に理解したいと思うのであれば、何かの定義に甘んじることなく、他者の発するシグナルを受け取り続けなければならない。誰かがあなたに理解してほしいと思っているなら、きっと何かを語りかけているから。

 

 なんだか難しいね。

 けどまあ、出来るところから、ひとつひとつのコミュニケーションで、相手そのものを見ていくことを気にかけていこう。ちょっとずつでもね。