憧れに咲く花のようで

「うちの猫がね、かわいいのよ。もうずっと一緒に居たいくらい。」

―いいな~。よくひとり暮らしでお迎えしたね。

「前に付き合ってた人が飼いたがってね。けど、別れた時に置いてかれちゃった。」

―えっ、ひどい。

「恋人とも猫とも別れたくなかったからさ、この子だけでも残ってくれてよかったよ。それに、誰かがきっかけをくれた物事を、自分のものとして抱いたまま生きていくのって、割によくあることじゃない?」


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生きていると時々、誰かの価値観にどっぷりと浸かる時期がある。

最初に得た価値観は、両親が持っているそれに根差したものだ。物事の善悪とか、何を見聞きするかはもちろん、父親や母親が好む物事を、とりあえずは受け入れていた。多くの人がそうであるように。

やがて、中学生の頃は音楽をたくさん教えてくれた友達のセンスに依拠し、ドラムを始めてからは先輩やプロドラマーの演奏法や考え方の真似をした。社会人序盤の頃は指導役の先輩の考えをベースに仕事をしていたし、時々で恋愛的に好きになった人の影響も、多分に受けることがあった。

いろんな人に、憧れてしまったのだ。

そんなひとつひとつの時期において、自分がそれまで考えていたことはきれいさっぱり拭われ、一挙一動に至るまで、憧れの対象となった人のモノサシが頭にあった。自分のとった行動について、その人はどんな評価を下すだろう?そんなことばかり、考えていた。

…こんな話をすると、「あなたには自分というものがないのか?」なんてツッコミが入るのが定石だ。周りの人がどうであれ、自分の思いに従うのが自然で当たり前な姿だ。あなたらしさはどこへ行ったの?なんてね。そして、そんな理屈にすら従ってしまって、自分を責めたり、情けなく思う時期もあった。

けれど、どうだろう。

いま、自分の前には、自分がよいと思ったものが山のように積まれている。これを積み上げる原動力になったのは、盲目的に価値観を信じた人々への憧れだった。自分が素敵だなと思った人々の価値観が、今となっては幾重ものレイヤーとなって、自分の網膜を覆っている。

そりゃあ結構な度が入った色眼鏡だけど、そのおかげで世界はいつも面白くて仕方がない。それでも、自分らしいクリアな瞳を使わないとダメなのかい?

そもそも、周囲の人々の影響を受けるか受けまいかなんて、自分に選びようがあったのだろうか?

強烈な個性を持つ人と対峙したとき、抗うすべを持たなかったと記憶しているよ?


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新しい物事や能力の獲得を成長と定義するならば、おれは誰かの影響を受けている時こそ、凄まじいスピードで成長が出来る。

だって自分で選ばなくていいんだもん。自分を信じなくていいんだもん。何をよいと捉えるかを。

誰かの忠実なコピーに徹して、ひたすらその人がもたらす物事に触れていく。誰かが選んだものに追従して、自分も「いいな」と感じるとき、その気持ちは孤独さを帯びず、安心感に満ちたものとなる。

しかし、どこかのタイミングで、自分は影響をもたらす誰彼から独立して、違う価値観を持っていることに気づく。それは、同じ物事に同じように感動できない時だったり、誰かが大切と思っていることを、同じように大切に思えなかったり…。大体のものは、多く接しているうちに良さを見いだせるけど、どこか相容れないと感じたときは、ごまかしがきかないらしい。

誰かとの出会いで100個の物事を提示され、その99個まで取り入れることが出来ても、理解できない1個が表出するタイミングがある。そんなとき、おれはやっと自分を取り戻すのだ。

そしてやっと、手に入れた99個についても、自分の視点でよいと思えるかを、改めて検証できる。自分のものとして磨いていくか、実は興味が無いと判断して捨て置くか、、、そんな選択が出来るようになる。

いまおれが持っている能力や物事の嗜好、考え方なんてものは、誰かによってもたらされ、オリジナルの存在が揺らぐ中で選別され、ようやく自分の中に息づくようになったものばかりだ。自分を定義するとしたら、そんなコレクションの集合体たる存在だ。

別にすべてがイチから自分で見つけたものじゃなくてもさ、たまたま流れ着いた物事を見つめ、何を残して、何を伸ばすかは、きちんと選んでいるつもりなんだ。

もう、おれのものって言っていいよね?


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好きな曲があった。

おれの日々を彩り、肯定してくれる曲だった。

ある時、音楽的に尊敬できる人に出会った。

新しくいろんな音楽との出会いに満ちて、

今まで聴いていた曲はつまらなく感じた。

やがて、その人はおれの前から去った。

手元には、新しく出会った曲が残った。

そして、前に好きだった曲も聴けるようになった。

よかった。結果として、おれは豊かになれた。

なのにどうしてだろう。こんなにも悲しいのは。


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権力者が頂点に立つとき、一番初めに行うべきことは、自分を頂点へと導いたフィクサーを殺すことだそうだ。

自分の力の源となる絶対的な存在から脱却するためには、その存在を超えるなんらかの過程がないと、永久にその存在の傀儡になってしまう。

おれはどうだろうか。両親とはフラットに話せるし、過去に憧れた人たちは今も素敵だと思うけど、それに流されることはもうない。今なら特に気負うことなく、対等に接することが出来るとおもう。

彼らの存在から脱却する方法はいろいろあったんだろうけど、結局のところ物理的な離別でしか、うまく折り合いをつけることが出来なかった。近くで日々を過ごすかぎり、彼らは否応なしに存在し、彼らなりの正しさを発信し続け、おれはそれを盲目に受け止め、苦しくなるばかりだった。そんな環境から離れ、自分のひとつひとつの行動と思考をもって、彼らを検証することが、自分を自分たらしめる過程へとつながった。その後、再会の機会を得られたとき、その関係は前とずいぶん違って映る。

でも、いまだって思う。どうやったら、最初から自分で居たまま、彼らの影響を受けることが出来たんだろう?過去の自分を尊重出来たんだろう?これから先、また自分と他者を見失うことがあるんだろうか?


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強烈な存在がこちらへ驀進してこないか、

今日も、怯えている。


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#最後まで読んでくれるようなあなたにこそ、自分のことを話したくて書いています。いつもどうも。とてもいとおしく、思っています。