人間関係にコスパを持ち込まれる地獄にて

 とあるギタリストの噂話をしているなかで、「このセッティングだったら、どんなギターでもいい音になるよね」という話になったことがある。

 

 エレキギターの音を構成する要素はいくつかあって、エレキギター本体のほかに、実際に音を鳴らすアンプ、ギターとアンプをつなぐケーブル(バンドマンはシールドと呼ぶことが多い)、それと音に変化を加えるエフェクターなどが挙げられる。あと、演奏者の腕前も。

 

 このとき話題にあがったギタリストは、ギターコレクターとしても有名で、雑誌の記事にあがるギターもだいたいが一般的とは言い難いもの。しかも記事を読んでいくと、構造に無理があって演奏がしにくかったり、正確な音程が出なかったり、弾いているうちに音程が狂っていくものもあるらしい。

 

 でも確かに、ギター本体以外の機材はシンプルかつ名機と呼ばれるものばかりで、ギタリストの腕前もなかなか。これなら、どんなギターでもそれなりの演奏ができそうな気もする。

 

 かれの人柄をうかがい知れるポイントとして、インタビューのなかで漏らしたこんなひとことがある。

 

 「でも、このギターにしか出せない音があるんです」

 

 ***

 

 「友達をコスパで選ぶ大学生が急増!」

 

 こんな感じのタイトルのネット記事を見かけて、思わずクリックだかタップだかをしてしまったおれは、まだまだメディアに扇動されがちなようだ。まあこんな話題が流行ったのもずいぶん前な気もするし、どっちにしろ今もスマホ中毒だから、文字がつらつら書いてあれば何でも開いちゃうんだけどさ。

 

 まんまとアクセス数稼ぎに引っかかりつつ記事を読んでみると、どうやら今どきの子は、友達付き合いを役に立つか立たないかで選ぶことが多いと言いたいらしい。授業のノートをコピーさせてくれるとか、バイトを代わってくれるとか、コスパとついている通り飲み代をおごってくれるとか。はたまた、この人は話を聴いてくれるから、この人は趣味が合うからとか、目的別に友達を効率よく使い分ける、という意味も含まれるそうな。それで、目的が果たされない場合は関係も切ってしまうような、そういう志向。

 

 定義まで見ると、決して自分とも無縁ではないなあと思う。新型コロナが流行ってバンド活動をしなくなって、バンド抜きでは関係が続かなかった人がたくさんいるし、もっと前にしても利害関係がなくなったらまっさらの他人になってしまった感覚を覚えたことは、幾度となく思い出せる。

 

 世の中を見ると、利害が先に立つ人間関係なんていくらでもある。記事にあがった大学生の例もそうだし、そこから年代があがれば仕事上の交際なんてこともあるし、いわゆる「結婚を前提としたお付き合い」をする人もいる。むしろ、目的意識の共有がないと人間関係を保てない人もたくさんいると思う。または、目的もなく人と付き合うことに、意味を感じない人も。

 

 けれど、おれは誰かと関係が切れるとき、「共通の目的以外に、他につながる方法を持っていたら別れずに済んだのかなあ」と、寂しくなる気持ちを抱くばかりだ。そういうのは、ちょっとおれがセンチメンタルすぎるんだろうか。はたまた、人間関係について貧乏性すぎるんだろうか。

 

 ***

 

 おれは、自分が好きだなと思える人と出会ったとき、どんなつながり方をすれば縁が続くかを、つい考えてしまう。

 

 ありがたいことに、自分に害をなす人は自動的にキライになれる性分なので(現在のところ)、おれが好きになる人は、だいたい何かしらの好意を自分に向けてくれている。そんな人にたいして、おれも自分のペースを守りながら、何かを与えられたらと思う。

 

 そんなとき、与えあう好意の中身とか量には、あまりこだわりを持たないようにしたい。誰かとの好意のギブアンドテイクに身を委ねすぎないで、どんなヘンテコな人を好きになっても、どっしりと構えていい関係を築ける体力を持っていたいのよ。

 

 楽しいことがなければ探せばいい。会いたければ、そう言えばいい。したいことがあれば誘えばいいし、したくないことがあったらなんとかして伝えればいい。時間が必要なら、本でも読んで待っていればいい。どこかで、関係があることに感謝すればいい。付き合いを続けるのにコスパが見込めるどころか、むしろ関係を続けるためにコストを払う感覚をおぼえることすら、よくある。

 

 でもまあ、それでいいのよ。

 その人にしか感じられない魅力とは、かくも手放しがたいのでね。