かわいいを手にいれた

 子どもの頃、なにかを「かわいい」と評価することが出来なかった。

 

 当時は「かわいい」という表現を、男性が好きな女性にだけ使える、好意を伝える表現の一種だと思っていた。あと犬や猫を見たときとか、オトナが子どもに使う場面とか。どちらにしても、限定的なシチュエーションでしか使えない表現として扱っていた。

 

 だから、たとえば男性がパンジーの花を見て「かわいい」と言うような場面には違和感があったし、女性が男性に向かって「かわいい」というのも、表現として存在はするのは認めつつ、「それはなんか揶揄してるんじゃないの?」と内心思ったりもしていた。

 

 今となっては、ここに挙げたような光景は全く当たり前のように思える。むしろ、自分からすすんで物事をかわいいと思うことばかりだ。「かわいい」という言葉へのジェンダーバイアスのかかりまくった考えについて、どこかで認識を変えられたのは本当に命拾いだった。自分のなかにある偏見は、いずれ実際に他者へと向けられることになる。というか、どこかで誰かに口走っているのかも。なんだったら、いまも何か偏見に満ちたことを口走っていて、何年何十年もあとに、それに気づくこともあるのだろうしね。内なる思考の偏りと、それによる行為についての自省とは、一生付き合っていかなければならない。

 

 といっても、おれに「かわいい」という表現を使わせなかったのは誰なんだろう。男性の自分にたいして、「カッコいい」という感想しか出てこないようなものばかりをあてがってきた社会だろうか。クラスメイトの誰かが女の子に「かわいい」と言ったとき、それを揶揄していたやんちゃな…いや、言語的または身体的な暴力を平然と行使していた連中のせいだろうか。または、そういうふうに「かわいい」と距離を置いてもなんとも思わない自分自身の感受性の弱さが、結局は原因だったのか。

 

 まあ、犯人捜しはいいや。

 どちらにしろ、おれはどこかのタイミングで「かわいい」という表現を手にいれた。というか、使うことを自分に許した。そうなると、鬼に金棒、猫にまたたび、ザシアンにくちたけん。それまでいいなと思っていたものが、実はかわいいものだったと気づいて、世界の見え方はよりクリアになった。

 

 それまで、ダボっとしたパーカーとか、汗をかいたクリームソーダフロートとか、あるいは誰かが不意に見せるくしゃっとした笑顔とか、そういったものを見つけても「ウ~」としか言えなかったところ、気軽に「かわいい!かわいい!」と規定できるようになる。これは大変なことだ。言葉にできない感情を整理するどころか、ポジティブな印象を持つお墨付きを与えられたら、もうこの世はお気に入りだらけだ。

 

 もし、何か素晴らしいと思うものと正対したときに、その感性が何かしらの思考の規範によってねじ曲げられてしまい、白けた印象とともに拭い去られてしまうとしたら、あまりにもったいない。自分が「かわいい」と思ったなら、「男の子がそんなこと言うもんじゃない」「言うて世間的には微妙では?」「なんでも鑑定団に出したらせいぜい5,000円くらいだぞ」なんて、別のモノサシを持ち出す必要はない。

 

 おれは、自分の視界で感じるものを、かわいいものでいっぱいにしたい。

 おまけに、カッコいいものも、キレイなものも好きだ。

 したらば、素敵なものを見逃さない感受性と、それを妨げない内面的な思考の自由さを、どこまでも求めていきたいものだね。