あの感性は

 もう何年も前に、あるバンドと人づてに知り合った。

 

 そのバンドは演奏技術もさることながら、ギターボーカルの人が作る曲が、まったくもって他の人には真似できない独特さを持ち合わせていた。ハードロック然としたリフ主体の曲もあれば、軽快な4ビートが流れる曲もあり、J-POP然としたキャッチ―な歌モノもあれば、長尺の即興演奏が差し込まれる展開も見られた。多様なバックグラウンドが窺える楽曲に乗せられた歌詞は、仏教的な死生観や、社会と主人公の距離をとったかかわり方を題材にしつつ、どことなく退廃的なものが多かった。そうかと思えば、ストレートに内心を吐露したと思われる曲もあり、そんなバランスも含めて、自分にとってとても魅力的なバンドだった。

 

 一時期は毎回ライブも観に行っていて、自分のライブイベントにもよく出演してもらった。決して深い関係にはなれなかったけど、会えばあいさつを交わすくらいにはなれたし、楽曲やライブの感想を話すとうれしそうに聴いてくれた。

 

 だけど、コロナ禍の波が容赦なく押し寄せ、このバンドも活動を休止。Twitterでつながっているドラムの人が別のバンドで活動していることまでは把握しているけど、それ以上の消息は分からない。ギターボーカルのSNSはどれも止まったままで、もう音楽活動からは手を引いてしまったのかもしれない。

 

 あの感性は、いまどこに息づいているのだろうか。

 

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 音楽とか文学とかのアートとは、作者が持つ感性が、たまたま人に見える形に行きついたものと捉えている。

 

 人目に触れなくても、誰かが何かを感じて、何かを思考する状態は当然に存在する。っていうか、それがほとんどだ。どんなに言葉にしても、どんなに行動をしても、そしてどんなに表現活動をしても、日頃頭を回していることのごく一部しか、自分の外に出すことはできない。自分のなかに渦巻く発想をキャッチして、世に出せる形に翻訳するかのように作品を制作し、人目がある場所までそれを持っていく。そんな過程に耐えられる条件が整うのは、とても貴重なことだ。

 

 かれが曲に化かすことが出来た世界の見え方を共有する機会は、もうないのかもしれない。おれが震えたあの感性は、もはや人目に触れる過程すら省いて、人知れず純化しているんだろうか。はたまた、あの狂気を何か別の形で表現しているんだろうか。

 

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 あなたは、かつて知人の才能に息をのんだ経験があるだろうか。

 

 クラスメイトが描いたスケッチやマンガ。弾き語ってくれたオリジナルソング。舞台上で繰り広げられた鬼気迫る演技。仕事や学業へのストイックな向き合い方だって、才能だし一種の表現だろう。

 

 そして、もしかれらがそういった表現の仕方を手放しているとしたら、かれらの感性はどうなってしまったのだろうね。かれらはもう何も感じなくなった?何か、別のかたちで表現している?それとも、誰の目も届かない場所で、静かに渦巻いているのかな?