おなじ話をもう一度

どこにいるの? となりの部屋にいるよ

何をしてるの? 手紙を書いてるの

そばにおいでよ でももう行かなきゃ

話をしよう ……

 

それから 君はぼくを見つめ

それから 泣きながらわらった

 

さようなら ゆうべ夢を見たよ

さようなら いつもおなじ話

 

おなじ話 / ハンバートハンバート

 

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 「誰かが前にも聞いた話をしてきたら、それはきっと大切な話題なんだよ」

 

 こんな考え方に触れてからというもの、仲のいい人が一度話してくれた話題をふたたび繰り出してくる瞬間が、たまらなく好きになった。この人にとって大切なことを、または話したくて仕方ないことを、自分に惜しげもなく出してくれてるんだなって思えるようになって。

 

 もちろん、ただ聞くだけでは芸がないので、そんなときは前と違う切り口で話が進むように相槌を打ったりする。すると、物事のディテールとか、相手が関心を抱くポイントとかが、より深く理解出来て、なんだかその人の見ている視野に近づけたような感覚になる。誰かがうんうん思考したトピックを、1度きりの会話で消費してしまうのは、なんだかもったいない。

 

 そんなもんだから、「その話、前にもしていたよ」なんてフレーズは、自分のなかで禁句になった。前からこのフレーズを出すと、なんか微妙な空気が流れるから使いたくなかった。そりゃそうか、ただの気づきじゃなくて、大切な話を沈黙に化かしてしまう即死魔法だもんね。

 

 そういえば、本人が話し始めた話題について、SNSだったり第三者からの話だったりで、あらかじめ知ってしまっている場面もあるよね。本人がニコニコしながら話し始めてて、しかも話したことを忘れているわけでもない。こんなときも、できるだけ「あ~、知っとる知っとる」なんて言わないで、とりあえず話の流れに身を任せてしまう。単なる事実共有という場面もあるけれど、どちらかというと何かの出来事を語りたいという意味合いが強い気がしているし、せっかくなら本人がどう語るかを聴いてみたいのだ。

 

 その点、学生の頃とかってすごかったよなあ。ただでさえ同じ人と頻繁に顔を合わせるのに、共通の知人も先輩同期後輩とゴロゴロいて、それに加えてSNSでもつながって、更新もこまめにされたし、自分もした。よく話すことあったな。そりゃくだらない噂とかでケンカしたりもするよ。

 

 最近になって、知人との距離感の濃淡はずいぶんと整理されてきている。ざっくり分類すると、SNS上での関係、第三者が介在する集団に属した関係、そして少人数での関係。こういったレイヤーにまたがって存在する人が、だんだんと減ってきている感じがするのだ。あるいは、一時期は複数の分類にまたがっていても、いずれどれかの分類に納まってくる。具体的には、職場という人間の集団で出会って、のちに仲良くなって少人数での友人関係に落ち着くようなパターンとか、前はどこかで毎日顔を合わせていたけど、いまではSNSで「いいね!」を送り合うだけの仲になったパターンとか。

 

 正直なところ、おれは仲がいい人とは、あらゆる方法でつながり続けたいと思っていた。共通の知り合いがあちこちにいて、逐一SNSで最新の動向を知りたいだなんてね。けれど、それに耐えられるほど、自分も相手はおもしろいコンテンツではない。共通の知り合いから聞いたこと、SNSでも知ったことを、あらためて本人からも聞くのはちょっと疲れてしまう。つながる機会を少しだけ我慢すれば、おなじ話題に終始することはグッと減るのだ。

 

 現に、関係を深める過程ではSNSでつながっていたものの、仲良くなってからはSNSでつながらなくなった人が増えてきている。親しい仲であっても、SNSに流すような情報の質と頻度に耐えうるかは別の話。主体的に伝えたいことの内容やタイミングを判断しあって、ひとつのトピックを濃密に1度だけ話すのが、お互いにとってもラクに感じるような場面もあるのだ。ひょっとしたら、SNSはある程度どうでもいい人同士の方が、うまくいくのかもしれないね。

 

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 この話、前にもしたっけな。