視界が違っても味方であれ

 自身のセクシャリティがそれほど大きな関心事でなかったおれは、ゲイとして人間関係を築き始めたのがいささか遅かった。

 

 初めてゲイ向けのマッチングアプリをインストールしたのは、社会人1年目か2年目の頃。それから何人かと出会ってみて、まずはせっせと友達を作ることに励んでいた。だって、セクシャリティどころか、自分が誰かと恋愛することも考えられなかったんだもの。周囲のノンケの子を相手に叶わぬ恋にもがきまくり、そうでなくても常にモテない陰キャグループにいたので、自分には誰かと相思相愛の恋愛関係になってデートするというチャンネルが、まったく存在しないと思っていた。

 

 恋愛=成就しないもの、という概念を早々にすんなり受け入れていたおれは、自分がゲイであることはあまり苦しい問題ではなかった。だから、マッチングアプリでいろんな人と会えたことは、「やっと恋愛ができるぞ!」というより、「いろんな人と会えて楽しい!」という気持ちの方が強かった。

 

 やがて、ゲイ同士の人間関係だからこそ伝わる恋愛あるあるとか、好みの男性のタイプとか、セックスのあれこれだとかを共有できるようになってから、ゲイとして人付き合いをすることがどんどん楽しくなった。いろんな交友関係ができて、これが自分でいられるってやつなのかなあ、なんて考えていた時期もあったような気がする。

 

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 ゲイだからといって、なんでも共有できるわけではないと気づいたのは、それなりに早かった。

 

 もうずいぶん前に付き合っていた人と、「お互い、他の人ともセックスをしてもよい」という取り決めをしたことがある。この取り決めが、オープンリレーションシップと言ってよい状態だと分かったのは、話し合いをした後のことだった。その頃はパートナーシップの在り方が多岐にわたることを、おれも相手もまだ知らなくて、お互いにツラい表情を浮かべながら話し合いをしたものだった。

 

 このことを、当時付き合いがあったゲイの友達に報告したら、みんな少し暗い表情をした。そして、「すごいね、まあふたりがいいならいいんじゃない?」とか、「う~ん、ちょっと自分にはわからないかも」といったことを、ポツポツと漏らしてくれた。

 

 まあそうだわな。性的指向とパートナーシップの指向は全然違うベクトルにある。ゲイの友達から「パートナーに浮気されてツラい」みたいな話は、当時すでに何回も聞いていたしね。自分がオープンリレーションシップをとることは軽い報告のつもりだったけれど、後になって、「ああ、セクマイなうえに、パートナーシップまでマイノリティになってもうた。またひとりぼっちか。あ、いや、彼氏とふたりぼっちか。へへへ」と、なんか微妙にRADWIMPSみのある言葉遣いで考え事をしていた。もっとも、その彼氏ともじきに別れたが。

 

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 あるとき、彼氏とオープンリレーションシップの取り決めをしたことを、ノンケの友達に話したことがある。おれがゲイであることはカミングアウトしていたものの、ゲイであることをカミングアウトするより緊張したものだ。

 

 意を決した2回目のカミングアウトにもかかわらず、その友達は丁寧に話を聴いてくれて、「そこまでふたりで整理できたんだね。大丈夫なんじゃない?自分だったらどうするだろう…」と、自分に置き換えて一緒に考えてくれた。

 

 自分もまた、ノンケの友達から恋愛の相談を持ちかけられると、なんとかその人の視界を想像して、一緒にどうしようか考えるようになった。20代も半ば~後半になると、ちょっと人には言いづらいような恋愛の仕方を経験する人も増えていた。そんな渦中にいる友達と、なんとか味方同士でいたかったのだ。

 

 今思えば、誰かと分かり合うには、同じ属性であることより、お互いに想像し合えることが必要であることを知り始めたのは、この頃からだっただろうか。

 

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 恋愛やセクシャリティにかんする昔話をいくつかまとめてみたけど、これを読んでいるあなたは、どれくらい共感できたんだろうか。もしかしたら、どれもこれも想像もつかないような話だったんだろうか。

 

 少なくとも、「ゲイならわかりあえる」とか、「結婚している友達に自分のことはわかるまい」などといったことは、今では全然考えなくなった。自分が抱く状況を伝えて受け取ってもらい、相手がこぼしてくれた話を受け止める。幸せだと思うこと、ツラいと思うことを、伝えたいように伝え、発せられたとおりに受け取り、ノドにつっかえている言葉を待ち合う。相互理解に必要なのは、そういった根気のいる営みであると思っている。

 

 他者の気持ちを完全に知ることはできないし、その立場に完全に拠ることも、どうやらできないらしい。差別や偏見にしたって、完全になくすことはできない。だけど、それが想像力を放棄する理由にはならないよ。

 

 誰かを慮ることが徒労に終わろうとも、おれは周りの人の味方でありたい。その徒労をきちっと検証して、また誰かの気持ちを想像し続けたいのだ。