らしさ
何をやっても自分になる。
そんな認識に帯びるのは諦念だろうか。
それとも、希望だろうか。
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おととしの春、おれは今使っているデジタルカメラを手に入れた。
画質はとてもきれいで、ピントを合わせて背景をぼかすとか、シャッター速度を落としてわずかな光を拾うとか、スマホではちょっと出来ない撮り方も出来るようになった。これで、雑誌やSNSで見かけるような写真が撮れるぞ…と意気込みつつも、自分がこんなにいいカメラを持って、いったい何を撮るんだろう?という不確かさも持ち合わせていた。
あれから時間が経って、自分が撮りためてきた写真を眺めてみる。すると、「ああ、おれはこんな風にカメラを使うのか」という念が湧いてくる。写真に残すことのできる対象が無数にあるなかで、一体自分はどんな対象に意義を見出して、レンズを向けてきたか。どんな写真を誇らしげに思うか。そんな傾向をたどるうちに、自分の個性に気づく瞬間が好きだ。
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他人と同じことをしているはずなのに、それでも浮かび上がってくる個人の色のことを、おれは個性として認識している。同じ仕事をしていても、同じご飯を食べていても、仕草の端々に当人の個性が表れ、そういったことを「らしさ」という風に思う。
自分らしさとはなんだろう?そんなことを考えるとき、ひとまず身近な行いのことを思い出す。最近取り組んでいる仕事、作った料理、演奏した楽器、そして自慢のデジカメで撮った写真…、そういった媒体を通して、自分は自分であろうとしていることがわかる。そこかしこに、自分がよいと思って取り入れたやり方が潜んでいる。他の人なら気に留めないような点に、こだわりを注いだりしている。選びようのないものを選んでいるとき、その判断は自分にしか出来ない唯一無二の個性だ。
そして、自分が誰かを好きになる時もまた、その人の「らしさ」に惹かれる。もし、好きな人が裸一貫でどこか違う環境に放り出されても、きっとその人の持つセンスは変わらないと思う。そんな概念について、いとおしく思うのだ。
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時は令和。「30代らしい/らしくない」「男らしい/らしくない」「ゲイらしい/らしくない」なんて評価をされなくなって久しい。少なくとも(アンド幸いにして)、自分の周りではめっきり耳にしなくなった。万が一そんなことを言われたら、それなりに腹立たしく感じるだろう。
けれども、「あなたらしい」と言われることについては、自分は賛辞として受け取りたい。それを言ってくれた人の眼に、自分の何が映っているかはわからない。もしかしたら、ありふれた姿かもしれない。しかし、そのどこかに自分ならではの何かがあるならば、着実におれはおれで居られているのだ。