大きな川
渡良瀬橋で見る夕日を あなたはとても好きだったわ
きれいなとこで育ったね ここに住みたいと言った
***
大きな川が流れる街に、ぼんやりとした憧れを持っている。
街の中心地のほど近くに広い土手があって、自転車やジョギングに励む人が行き交っていて、夕暮れ時はオレンジ色のグラデーションが遠く望めるような河原。夜に訪れると、堤防のコンクリートに腰かけて、ひそひそと話をする人々が佇んでいる。そんなロケーションが、近所にあったらどんなにいいだろう。
河原でボーッとする風習で言えば、京都の鴨川のことを思い出す。鴨川のほとりで、ただボーッとする人が見渡す限りぽつぽつと続いている…いわゆる鴨チルと言うんだろうか。京都という土地でああいった過ごし方が出来ることが、とても羨ましい。関東人の自分は、京都に行くとまだ観光地を回ることに躍起になってしまうのだけど、いつか鴨チルのために訪れてみたい。もっとも、あの日常性を帯びることはできないのだけど。
あるとき、とある大きな川が流れる街でお酒を飲んだあと、河原で飲みなおしたことがある。近くのまいばすけっとで買い出しをして、鉄橋の下で酒盛りを始めた。あれはよかったな。お酒を飲んでいながらも、夜風に吹かれて穏やかな気分で過ごすことができた。話が盛りあがったタイミングで、電車が轟音を立てて通過したりしてね。
ほかにも、大きな川にまつわる思い出は、とめどなく思い出すことができる。友だちとバーベキューをしに行って、思いっきり酔っぱらったこと。どうしても泣きたくなって、電車を降りてひと駅分川べりを歩いたこと。好きな人と、ぽつりぽつりと大切な話をしたこと。どうしてだか、川にまつわる出来事は、たやすく思い出すことができる。
もしかすると、同じような感覚を持つ人も多いのかもしれない。川にまつわる音楽や物語、ひいては文化は、枚挙にいとまがない。さまざまな境遇の人々が、それぞれの思い出を、同じ川に重ね、統合のシンボルとして慕っている。そんな存在って、いまどき希有なようにも思える。
「国破れて山河あり」とは、よく言ったものだ。
***
あの夜の笑い声や花火が弾ける音は、河川敷の広くて真っ暗な夜空に吸い込まれてしまって、もう二度と戻ってこない。宇宙の一部になってしまったのだろう。
いまでもどこかを漂っているだろうか。
岸 政彦 / 「淀川の自由」(『大阪』より)