初詣

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大山の阿夫利神社まで初詣に行ってきた。

神奈川県の北西部、丹沢山系の一角を占める大山。別名「あめふり山」とも呼ばれ、古くから雨乞い信仰の地として親しまれている。阿夫利神社という名前も、そこから来ているそうだ。

小田急線に縁がある人は、本厚木という行き先をよく見かけるんじゃないかな。そこから2駅先の伊勢原という駅で降りると、大山行きの路線バスが待っている。

  

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だいたい30分くらいバスに揺られ、大山の麓にあるバス停にたどり着く。

バス停から続く曲がりくねった参道、決して賑やかではないけど、常に人の気配がある。

大山はテレビとかでもちょいちょい見る割には、イマイチ観光地化しきれてなくて、一見さん的なはしゃいだお客はあまり見かけない。その代わり、家族連れで穏やかに参拝に訪れる人が多い印象だ。慣れ親しんだ大山の地と阿夫利の神様を、静かに、かつ和やかに、慕っているように見える。そんな雰囲気が、いつ来てもいとおしい。

 

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足元に描かれているコマは、参道の入り口から数えた階段の数を表している。子どもの頃は、歩みと共に増えていくコマの数にはしゃいだものだった。

物心がつく前から、家族で阿夫利神社へお詣りするのが毎年の恒例になっていた。だいたい2月の建国記念日の頃に行っていたから、当時はこの行事を初詣と言ったことはない。けれど、年末年始のお餅がなくなってきた頃になると、今年はいつ大山に行くんだろうと親に聞いたりしていた。

やがてひとりで暮らすようになり、大山詣でに同行することもなくなった。毎年詣でていた習慣がなくなっても、急に罰が当たるようなこともない。むしろ幸せだなあと思える瞬間は増えていった。

大山へ再び通うようになったのは、実家を出て3年くらい過ごした頃だったかな。ある年、初めから終わりまで万事がうまく回りすぎて、明くる年も同じくらいハッピーでいられるか不安だぞ?という年があった。滑稽だね。弱虫は、幸福をさえおそれるものです。

そんなときに、ふと子どもの頃から連れられた大山のことを思い出した。わけもなく不安がって、そわそわと落ち着かないくらいなら、なじみのある神様のところを訪ねてみるのもいいんじゃないか。なんせ、久しく行ってないしね…とまあ、そんな具合の軽い動機だった。

こうして、家族の一員としてお付き合いがあった阿夫利神社のもとを、今度は自分のお付き合いとして詣でるようになったのだ。

 

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バス停からの参道を抜けると、ケーブルカーの駅にたどり着く。

ケーブルカーに乗ってもよいのだけど、歩いて阿夫利神社を目指すことも出来る。今日は…というか、ひとりで詣でる時は毎回、登山道の方へ足を向ける。せっかく来たんだ、山と森林の空気を感じたい。

登山道は距離こそ短いけれど、高さを稼ぐために急峻な道が続く。あっという間に汗だくだ。

山道を相手にしていると、余計なことを考えなくていい。音楽のひとつも流そうとは思わない。ただ前に進むために、険しくも心地よい目の前の景色だとか、冷たく乾いた風の匂いに集中する。

決して無心ではない心地よさが、確かにここにはある。

 

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これは去年、同じ場所で撮った写真。

そう、去年は雪がしんしんと降る中の初詣だった。神奈川県内でも山間部は雪が積もることもあって、数年に一度は、さながら雪山の様相を呈する中、お詣りすることがある。

 

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当時、雪が積もった参道をきしきしと踏み進んでいると、新雪が風に舞っている様子が見えた。目の前の崖をキラキラと彩り、しばらくジッと見とれてしまった。

現代人らしくスマホで写真に収めようとしたけれど、細かく風に舞う雪はうまく写らない。

このことが、去年カメラを買ったひとつのきっかけになった。そして年が明けて振り返ると、カメラを始めることで手が届いた場所や人、自分の感性に思いが及ぶ。

うん、今年も少し進んだ姿になって、おれはまた慣れ親しんだ大山にやってきたよ。

次はいつ、雪に覆われた景色を見せてくれるんかな。まあ急ぐこともないか。今のところ、これからも毎年来るつもりだからさ。

 

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阿夫利神社の下社に着いた。

本社は大山の山頂にあるのだけど、山頂まではもっと本格的な登山道が続いているし、たどり着いたところで原則として無人。祈祷だとか季節の祭事、御朱印やお守りの授与といった神事は、この下社で行われている。

ここでは、家族で来ていた頃の習わしに従って、本殿で祈祷を受ける。神主さんの奏上を聞き入れながら、いま願っていることについて思いを馳せていた。

これを読んでくれているあなたは、自分がいま何を願っているか、パッと思い浮かぶだろうか。

そもそも、何かしらの願いを持たずに、日々を過ごしている人も多いのかな。

正直に白状すると、おれは自分が何を望んでいるのか、ときどき忘れてしまうことがある。放っておくと、何も望まないでいることすらある。

別に、何かに満ち足りているわけじゃあない。欲しいものは何でも欲しがるくせに、散漫としすぎてすぐ忘れちゃうのよ。ていうか、満たされていることを実感しようもんなら、あとはもう失ってしまうだけだ。追いかける青い鳥がいるからこそ、明日に希望を持てるんじゃないかって、おれはおもうのだ。

五穀豊穣も、身体健全も、良縁祈願も、すべては願うことから始まるんだ。

自分が求めていることをハッキリさせれば、あとは日々の暮らしのなかで見逃さないだけだ。誰かと出会う時に抱く親しみ、物事に取り組んでいる時のひらめき、言語化できない直感、、、そんなものを見逃さないために、おれは時々何かを願う。自分が何を願っているかを、知るために。

 

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大山詣での時にしか、考えないことがある。

普段乗らない小田急線の車内、静かに風が吹く登山道、厳かに祝詞が響く阿夫利神社の本殿、、日常ではないけれど、積み重ねた習慣によって親しみを感じる道すがら、年に一度の瞑想のような気分で過ごしている。

大山に限らず、特定の場所や催しに行くことでアクセスできる領域が、自分が内包する形而上的な概念として存在することを感じるんだ。その場その場に行くと呼び起こされる記憶、過去の自分と周囲の人々、とりまく物事への思いだとか。

そういったものを、おれはなるべくなら守りたいと思っている。

現代の日本で暮らしていると、年中行事や地縁的な祭事が衰退傾向にあって、その代わりに個人がそれぞれに好きな催しに参加できるようになっている…という文章を読んだことがある。ロックフェスやオクトーバーフェスト同人誌即売会とかの隆盛なんかも、そのひとつの現れだという。そういえば、初詣にしたって、住んでいる街の氏神様とは別に、親しい人同士で選んだ神社にお詣りすることも、すっかり当たり前の光景だしね。

気がついてみれば、おれはもうすっかり否が応でも参加しなければならない行事からは解放されてしまった。職場の歓送迎会と忘年会くらいかな。人類史上でも割に自由に暮らせている方じゃんね、きっと。

でもさ、それだと長い時間が切れ目のない羊羹みたいに続いてて味気ないんだよな。「今年もこの時期になったか」とか、「次に来るとき、おれはどうなってるやら」なんて物思いができること、結構得難いんじゃないかな。

新しい物事にアンテナを張るのは大事だけど、長きにわたって同じ場に親しむことも、捨てたもんじゃないとおもうんだ。

大山詣で以外にも、決して濃い付き合いは出来ないながら、長きにわたって付き合っていきたい習慣が思い当たる。

そういったものを尊重するくらいの余裕は、持っていたいよな。

 

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阿夫利神社を辞した帰り道、崖の下にいた野生の鹿と目が合った。

柔らかい目つきでこちらを少し見つめて、辺りの草を食み始めた。人に慣れているのかな。

カメラを目いっぱいズームして表情を追う。日が暮れ始めて光が入らず、ちょっと苦戦。けれど、鹿は意にも介さずゆったりとただずんでいる。それでいて、こちらに視線をちょいちょいくれる。居心地がいい。なんか、好きになっちゃいそう。

最後に大山で鹿を見たのは中学生の頃とかかな。あの年は雪も積もっていた。家族みんなで珍しい珍しいってはしゃいだっけな。

撮った写真は、さっそく母親に送っておいた。

 

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帰りのバスに乗り込む頃、日はすっかり暮れてしまった。

祈祷の後に引いたおみくじを眺めながら、ぼんやりと今年1年のことを考える。「我が道を愚直に進め」ですか、がんばります。見ててくださいね。どんな風に取り組むかは、さっきご祈祷の時に考えていた通りですので。

 

…なんかスケベなこと考えてたかも。