消費と消化の合間で

 「コロナで休業している人だけ経済的な支援があるのは不公平だと思う。政府は普段と変わらずに働いている俺たちにも同じようにお金を出すべきだ」

 

 コロナが流行してしばらく経った頃、友達との会話のなかでこんな意見を聞いた。

 

 この意見を聞いて、とっさにいろんな情報と感覚が頭を駆け巡る。それを不公平と言うのはなんか違う。どうしようもない理由で休業している人にだけ補償されるのは当たり前では。機会の平等と結果の平等は別なんよな。でも定額給付金は全国民に出て…いやあれは審査事務を簡略化して早くお金を回すのと、経済全体を回すのが目的なはずで。。。

 

 そんなことを頭でこね回すあいだ、おれは意見らしい意見を何も言えず、友達の話はまた次へ進んでいた。

 

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 「あなたの恋愛は、恋に恋してるだけでは」

 

 自分が誰かに恋愛の話をしているときには、こんなふうに言われた。

 

 このときもやっぱり、一瞬で頭のなかがいっぱいになってしまう。恋愛で相手に求めていることをたぐりつつ、会話の流れを反芻する。反論のために適切な根拠たりえるワードを探す。そもそも恋に恋してる状態の定義とは?この発言をするあなたが、恋愛について抱いている像はどんなものなんだろう。。。

 

 と、やっぱりああだこうだと考えあぐね、めんどくさくなって「あ~、そうかも」なんて口走る。相手は「それ見たことか」という表情をして、また別の話を始める。

 

 自分にも思うことがあったんだけどな。ありすぎるくらいに。

 

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データベースは結論を出せないんだ。

 

福部 里志 / アニメ「氷菓」(京都アニメーション

 

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 何か考え事をするとき、自分の意見を強化してくれるような知識や情報を集めることは簡単なことだ。インターネット上でしかるべきワードで検索して、欲しい意見だけピックアップすればいいし、時間があるなら書籍を探すこともできる。読むには時間がかかるけど、書籍そのものとの出会いはそんなにハードルが高くない。

 

 自分からわざわざ探しに行かなくても、情報はこちらをめがけて勝手に押しかけてくる。テレビをつければ、SNSやニュースサイトのタイムラインをみれば、あるいと気心の知れた人と話していれば、いろんな人がいろんなことを言っている。そのなかで、自分にとってしっくりくる話は無意識のうちに目にとまり、「あ~わかる。納得納得」なんて膝を叩いて、それっきり。言語化された誰かの考えに出会えた快感を味わい、またひとつ誰かの意見を消費する。

 

 しかし、いくら知識や他人の言葉を集めたところで、それを自分の言葉に消化できるかは、まったく違う次元にある。極端な話、自分の意見がわずかしかなくても、雄弁に主張できる人はいるし、逆に膨大な知識を消化せず、何も知らないようにしか振る舞えない人もいる。

 

 もともと、おれは意見を持たないままに知識を集めることが好きだった。けれどいつしか、同意できる意見について自分の考えを添えたくなる場面と出会い、どうしても首肯できないような反論したくなる意見とも出会った。そんなふうにして、自分が抱く意見をつよく主張したいと思う場面が増えてきたのだ。

 

 だけど、口を開いても何も言葉が出ない。今までやっていたのは手当たり次第に集めた知識を消費することであり、自分の考えとして消化出来ていなかったと気づく。そして、自分は何の答えも持たない空虚な人間であることを突き付けられる。

 

 おれは一体、いまどんな意見を持つのか?

 おそらく、そんな問いと組手のように格闘し続けることが、誠実に生きるということなのだろう。