感情のプロデュース

 「お痛みがあったら手をあげてくださいね」

 「麻酔打ちますよ。痛いですね~はい、終わりました」

 「あとは、ここを埋めるだけですからね。もう少しですよ」

 

 虫歯の治療を受けたとき、こんなふうにせっせと声かけをしてくれる歯医者さんがあった。今どきは無痛治療が発達していて、それなりに歯医者に通った経験もあるけど痛みを覚えたことはほどんどなくて、このときも安心しきって治療に臨んでいた。この日も別に、痛みとか怖さとかはなかったんだけど、こまめに声かけをしてくれたのは、むず痒さもありつつも、安心感があってリラックスできた。

 

 歯をホリホリされながら、「ああ、やさしい先生だなあ」などと考えていたけれど、それはちょっと判断が早い。どちらかと言うと、やさしい声かけは技術による要素がおおきい。もしかしたら「患者を安心させる声かけマニュアル」みたいなものを、その歯科医院で共有しているのかもしれないし、仮に今回の先生独自の声かけだとしたら、この先生が患者を安心させるフレーズをたくさん持っているということだ。慈しみの心遣いというより、スムーズな診療のためのテクニックのひとつかもしれない。

 

 とはいえ、そんな意地悪なとらえ方をするのも不健康なので、健やかな歯に加えて、心の安寧まで保険治療で提供してくれた歯医者さんに感謝しつつ、心のなかで「心療内科の点数も乗せてよかったのに」とつぶやきながら、3ヶ月後の定期健診の予約をとって帰宅した。

 

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 他者に抱いた感情を表現する方法が見つけられないとき、おれはひどく無力感にとりつかれる。

 

 誰かの素敵な面を見つけたのに、それを褒める語彙を持たないとき。誰かに蔑ろにされたのに、それに憤る度胸を持たないとき。誰かに謝りたいのに、それと向き合う誠実さがないとき。誰かに好きと言いたいのに、それに重みを持たせる表情が見つからないとき。

 

 そして、誰かにやさしくしたいのに、やさしくする方法を見つけられないとき。

 

 根はやさしいなんて評価は、自分にとって欺瞞でしかない。なにか対象があってのやさしさならば、その相手が受け取ることができて、初めて相手のためになる。どうすれば相手のためになるか、相手にとって必要なものを与えられるか、そういうことを考え抜き、やさしさの根っこに水や肥料をせっせとやって、花を咲かせ、果実を相手に与えなければならない。

 

 感情表現が苦手な自分にとって、それは普段から素振りのように鍛える必要があるものだ。感情は瞬時に現れても、その表現を瞬時に行うことは難しい。言葉も行動も、日頃から訓練していないと形にならないのだ。それでいて、自分が100抱いている感情を1しか表現できない横で、別の誰かが1しかない感情を100に増幅させる方法を持っているもの。それってなんか、あんまりじゃない?

 

 できれば、ずっとエモーショナルでいたい。

 得意じゃないけど努力し続けたいと思える、永遠の課題のひとつかも。