ノム・ヤル・クラス

 一緒にお酒を飲むなら、お酒がなくても関係が成立する人がいい。

 

 飲み会の場は好きでもキライでもないくらいなんだけど、打ち上げのような場はわりと好きだ。それまで何かを一緒に取り組んだ人が、最中に思っていたことを知れたときとか、見えていなかった人間性に触れられたときは、なんだかその人のことがひと回り大きく見えるようになる。

 

 お酒を飲むと意識というか理性というか、自分を守っていた殻がふんわりとほどけていくんだけど、そういう感覚がベースになってしまう関係性は、いまのところ考えにくい。何か理性的に物事を共有している他者とお酒を飲むことで、ほろほろと表情が崩れていくような、疑似的な関係性の変化みたいなものを求めているのかもしれない。

 

 ***

 

 一緒にセックスをするなら、セックスがなくても関係が成立する人がいい。

 

 恋愛とセックスは別だとか、刹那的で先のないセフレ関係だとか、どうにもセックスが絡む物事は取り扱いに神経を使ってしまいがち。その原因は、セックスが自身にもたらす感情の揺らぎだったり、あるいはセックスという行為への社会的な評価と自身のとらえ方のズレだったり…、ときどきの切り口でうんうんと考えたり悩んだりする。自分もたくさん時間を使ったし、いろんな人と話し合ったりもしてきた。

 

 いまのところ、自分としてはパートナーシップと紐づけるほど神聖なものではないけど、いくぶんセンシティブに扱うべき物事。少なくとも、お酒を飲む相手くらいには、信頼度とか親密さが必要な行為に落ち着いている。そして、その人のセックスしている面しか知らない状態は、ちょっと寂しいなと思う。

 

 いろんな行為を通じて関係性を深めていって、その一面としてのセックスでありたいのだ。信頼できる仲良しのセクシーな部分はたまらなく魅力的だし、ひとりの人間にたいして多層的な視点を持てるのは、なんだか豊かなことじゃないだろうか。もちろん、そのセックスについて傷つく人がいなければの話だけど。

 

 ***

 

 一緒に暮らすなら、同居がなくても関係が成立する人がいい。

 

 あいにく、実家以外で誰かと生活をともにしたことはないし、これからもそういう機会がめぐってくるかは分からない。けれど、「この人なら一緒に住んでくれるかも?」というタイミングで、その人に執着しなかったことを思い出すと、誰かと共同生活することへの優先順位はそれほど高くないのかもしれない。

 

 その一方で、けっして頻繁ではないけれど、連絡をとったり実際に会ったりするようなウマの合う人たちの多くが、自分の好きなことにあくせくと取り組んでいる。誰かと一緒に住んでいる人であっても、自分のやりたいことや人間関係を大切にしている。そうした人たちに惹かれるなかで、「自分ひとりでもいい感じに生きれる同士で、誰かと一緒に暮らしたい」というのが、自分の目標となった。

 

 もし誰かと同居するとしたら、その前に自立した個人同士で関係を深めて、それに加わるレイヤーのひとつとしての同居人になりたい。誰かと関係し続ける意義を共同生活に依存するには、もう遅すぎたし、まだ早すぎるのだろう。