同じになれなかったおれたちは

 

 この人とはぴったり考えが同じだな、なんて感覚っていったいどんな感じなんだろう。

 

 一緒にいれば同じものに関心が向いて、同じことに笑ったり驚いたりして、次の休みにやりたいこともその先の大きな休みにやりたいことも一緒。そんな人と出会えたら、この人こそが自分のパートナーだ、信頼すべき人だと思えたのかもしれない。

 

 自分のあらゆる行動について指針めいたものがあるとして、そりゃその指針が近い他者がいたらいくらかラクだろうな。自分の行動が否定されるのは空恐ろしいことで、逆に自分がとりがちな行動を誰かもしていたら、なんだか自分の行動に正当性を与えられたような気分になって安心できるものだ。テレビのお笑い番組を観ている時、誰かが一緒に笑ってくれるだけで自分の感性が信頼できる。そんな瞬間を夢想したことは何度となくある。

 

 そりゃ、感性に正誤なんて無いのも承知している。

 何事に触れるときも自分の感じ方なんて曲げようがなくて、あるとすれば他者や社会とのかかわりのなかでどれだけ自分の感じ方を開示するか調節するくらい。誰に共有するでなく、自分ひとりで感じたことを大切に守っている物事なんていくらでもある。

 

 ああでもそうか、そんな孤独を知っているからこそ、誰かと同じ考えを持てる状態を求めるんだわな。夜を徹して好きな本をむさぼるように読んだ日も、必死になってボールの壁打ちにひたすら取り組んだ日も、その最中は夢中だったけれど気がついてみればひとりぼっち。感動もしんどさも、それを知るのは自分だけだ。どうせなら誰かとこんな気持ちを分かち合えたら、なんて欲が出てくる。そうして、ふと興味のある対象が同時にふたつぶらさがっていたら、誰かと共有できる方を選ぶようにもなるのだろう。

 

 自分もまた、そんな選択をすることがあった。誰かと共有できる物事に取り組んだ結果、成果だけでなくそれを共有する喜びも得られて、さらに深みにはまったこともある。しかし誰かと何かをがんばる一方で、自分ひとりで大切にしていたものを置き去りすることは、どうしてもできなかったのだ。誰かと一緒に行く観光旅行を楽しみつつ、ひとりで行く登山や自転車旅の時間やお金もなんとか確保したいし、誰かと一緒に映画を観に行っても、それとは別にひとりで映画を観に行くのをやめたりはしたくない。誰とも価値を共有できない孤独を内包しようとも、それを補ってあまりある魅力を見過ごすことなど、自分には無理な相談だったのだ。

 

 自分が好きなものを追う孤独を大切にするように、自分が親しく思う誰かもまた、どこかでひとり孤独を過ごしている。仮に他者を相手にすることばかりに取り組んでいるとしても、相手にしている人が多すぎて全貌は当人しか分からないとしたら、それだって孤独と言えるだろう。

 

 すべてを把握し合い、お互いのことならなんでも知っていると宣言できる関係をおれは持てなかったし、必要としてもないのかもしれない。そういった意味では、自分と他者のあいだにはびしっと線が引かれているのだろう。けれども、それは他者を排除するためのものではない。あなたと自分は違うところにいるけれど、それを踏まえたうえで親しくしたいと宣言したいのだ。

 

 他者と自分のあいだに線は確実に引くけれど、その線をまたいだりもどったりする。そんな立ち回りがもしできるのなら、誰かの領分にお邪魔した折には思いっきりその視界を目に焼き付けたい。でも長居はしないよ。それがおれなりの親しみだからね。

 

 同じさびしさを知る限り、おれたちはひとりじゃない。