良いDJ

 誰かに曲を勧めるということを、もうしばらくやっていない。

 

 音楽の嗜好は本当に多様で、自分とまったく同じ好みの人と出会った記憶がない。限りなく感性が近いなと思う人がいても、あと一歩のところでこだわるポイントが違ったりして、どこかに分かり合えない点をぼやかしている感覚がある。

 

 しいて言えば、あるジャンルとかに限ればツーカーで話ができる人には、ときどき出会うことがある。なかなか出会えなかった同好の士を見つけて、ひとりで楽しんできた楽曲の魅力について共有できた瞬間は、なんだか果てしない砂漠でオアシスを見つけたような気分になる(そういえばオアシスもカッコいいよね)。

 

 それでも、自分の好きな音楽を誰かに聴かせて、たちまちにその魅力に取りつかれてくれたらと妄想することはある。実際、自分が新しい音楽を聴くきっかけが、周りの人のレコメンドということはままある。けれど、それは周りの人が勧めてくれた瞬間にハマったわけではない。だいたいは、名前を知った瞬間や、なんか有名な曲のサビだけを聴いた瞬間にはピンときていない。家に着く頃には忘れたりしてるくらい。やがてその曲を忘れた頃に、ふと別のタイミングでその音楽のことを思い出して、ひとりでじっくりとその音楽と出会いなおすことがあるのだ。それからやっと、少しずつその曲の魅力がわかってくる。即時的に好意が最高点まで到達することは、ほぼないのだ。

 

 だから、おれは自分の好きな曲をなかなか他者に教えない。仮に自分の好きな曲を誰かに聴かせたところで、自分と同じようなハマり方をする期待はできないし、聴き終えたあとの「ああ、うん」みたいな表情にどう対応すればいいか、イマイチよくわからない。自分のなかで、音楽を楽しむとは孤独な行為であると、すっかり定義づけられてしまった。

 

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 友達とドライブに行くとき、お互いの好きな曲を車内で流している時間が好きだ。

 

 前もってプレイリストを組むこともあれば、その場の雰囲気で曲を決めることもある。連れ立っている人たちの顔と、そのとき自分が好きな音楽のタイトルとかジャケットなんかを頭のなかでめぐらせる。なんだったら、好きなジャンルのヒットメドレーや1枚のアルバムに身を任せてもいい。そんなふうにして、クルマの走行音と沈黙をごまかしていく。

 

 長い時間が横たわるなか、そこで流れている音楽に反応するかは自由だ。積もる話や移ろう景色、サービスエリアで買った珍しいお菓子とか、共有できるものはありあまるくらい。そのなかで、流れた曲に反応し合えたらうれしいし、前に流れた曲がじわじわ思い出されるなんて状況もケアしやすい。また流せばいいんだから。その場で反応するか否かの自由が担保されているなんて、なかなか得難い自由だよね。

 

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 どうやら、自分が持っているあらゆるすべての物事について、自分の周りの人が、自分と同じ方法で、自分と同じ感じ方で、なんかいい気分だなあと思うことは、おおよそ期待できないことだったようだ。人にはそれぞれの感受性があって、自分がいいと思うすべてのことを、誰かと共有することなど、ありえないこと。どんなに親しい人と一緒の物事にふれたとしても、頭の中までは遊びに来てはくれない。

 

 けれど、それをもって孤独であると定義するのは、まだ早い。すべては共有できなかったけど、いくらかは共有できた経験はある。全然ある。一緒に笑ったり泣いたり、感情を揺り動かす対象が少しでもあったとしたら、そういったものを大切にしていけばよいのだ。

 

 自分しか知れない感覚がある寂しさは、ずっと抱えていくしかない。

 だからさ、誰かと共有できる感覚を、全力で取りに行こうぜ。

 

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 このエッセイ集でちょくちょく登場する引用は、どれも自分の好きな作品ばかりです。誰かに押しつけたくはないけど、誰かに知ってほしさもあって、この場でそっと載せるようにしています。もう気に入ったフレーズだとかがあったら、ぜひ原典もチェックしてみてくださいね。