寂しさを知ってから

 寂しさを知らなかった頃、おれは無敵だった。

 

 子どもの頃、あんまり友達とわいわい遊ぶ性質ではなくて、週末の予定がまったく無くても平気だった。子ども部屋でひとり用のゲームに夢中になって、父親の本棚に並ぶ本を端から端まで読む。そこに寂しさはなくて、むしろそんな過ごし方が気楽で好きだった。

 

 おかげさまで、学校生活で若干の不便を覚えるくらい友だちが少なかったし、自分が抱える物事を共有できた喜びも、あまり経験していないと思う。いまでも、自分の考えを素直に表明するとか、周りの人が話すことを受け取る能力には、ほとほと自信がない。

 

 その代わり、ひとりで自転車を漕いでたどり着いた景色とか、数々の本をパズルのように組み合わせて見つけた発見とか、そういったコレクションには秘かに自信があった。自分が知りたいことは、たぶん全部知っている。知らないことがあったら、時間をかけてでも調べあげる。そばに人にいないことは、全然気にならないもんね。

 

 そんなバイタリティーが最強で無敵で貴重だったことを、当時はまだ知らなかった。

 

 ***

 

 いつのまにか、自分も他人のことを気にかけながら暮らすようになった。

 

 学校で、趣味で、職場で、そこから派生したどこかで、または最初から閉じた場所で、さまざまな人とのかかわりの中で自分の居場所を見つけた。心地よい時間が流れて、誰かに褒めてもらったり、心配してもらったり、または自分が向けた気持ちをうれしく思ってくれたり。

 

 そして、そんな瞬間はいつか失われてしまう。毎日一緒にお弁当を食べていた人と、パチッと会わなくなる。同じ目標を目指していた人と、涙ながらにゴールテープを超えた瞬間に、ひとりぼっちになる。どんなつながりも、いつかは終わってしまうことを知ってきた。

 

 そうして空いた穴は、もうひとりでの行いでは埋まらない。何かをすることによって、人から認められる喜びを知ってから、自分の行いは誰かに向けられるもので占められ始めた。そして、誰のためでもない自分のために知識を増やし、音楽を楽しみ、物思いにふける時間は、ずいぶんと減ってしまった。

 

 ああ、なんだか自分は、何かの寄せ集めのような人間になったよ。

 

 ***

 

 寂しさのために空費した時間とお金のことを思う。

 

 そりゃまあ、寂しさが全く無かったら、いま周りにいる人にも会えなかったと思うし、体験できなかった物事もあったと思うよ。でも、寂しさのあまり自分のためにならない場に入れ込んだり、つまらないことにお金もずいぶん使ってしまった。いくつも瞬間に、寂しさに惑わされないで、冷静に時間とお金の処し方を考えていたら、こんなふうに後悔することもなかったのかも。

 

 寂しさへの最強の特効薬は、何かに没頭することだって、メンタルがブレていた時にブックオフで105円で買った自己啓発書に書いてあった。そうして、まだ寂しさを知らなかった子どもの頃を思い出す。誰のためでもない自分のための物事に夢中になれた時間、めっちゃ満たされてたっけ。あの頃より、付き合いのある人は段違いに増えたのに、どうしてだか渇きを感じる時間は増えた。

 

 はたして、渇きから解放してくれるような没入感を、また味わうことは出来るんだろうか?

 

 それとも、何か違う答えが待っているのだろうか―

 

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