見よう見まね

 何か新しいことを始めようとするときは、出来るだけいいお手本と出会うことから取り組めるといい。そんなことを知ったのは、もうオトナになってからだった。

 

 自分なりの価値判断はひとまず脇に置いて、目指すべきお手本をひたすらコピーする。マニュアルがあれば頭に叩き込んで、お作法があれば守ってみて、師匠の言うことは忠実に守ってみる。そうしているうちに、目指すべきものの「型」が身につく。修行を始める前とは、対象の見え方がまるで違って見える。その段階までたどりついてから、自分なりのセンスを取り入れたくなって、それまでの教えに納得できなくなったとき、ようやくひとりでその道を究め始めるのだと思う。

 

 こういった考え方は、どうも昔ながらの徒弟制度の印象がフラッシュバックして、昔はあまり素直に受け入れられなかった。寿司職人見習いは修行を始めても3年間は皿洗いに専念するとか、そういうのマジでダルい。マニュアル化すればいいのにと思う。

 

 子どもの頃にスポーツにあまりハマれなかったのも、周りをマネして成長することを避けていたからだと、最近になって気づいた。サッカーとかが上手い子をマネて、その差に打ちのめされながら、ちょっとずつ成長していく…くらいなら、部屋で静かに本を読むとか、対戦のないゲームにひとりで没頭することを選んでいた。

 

 けれども、ひとりで物事を探求するのには限界があることを、生きていくうえで知るようになった。ドラムにしたって上手い人をモノマネした方が劇的に上達したし、仕事なんかむしろひとりで好きなことばっか覚えたら大変だ。

 

 お手本と比べて自分の足らざる部分を自覚し、修行していく日々は消耗したけど、気がつくとひとりでは到底たどり着けないような領域にたどり着いていた。不完全な途上にいる自分を、小さい頃からもっと許せていれば、今頃また違った場所にいたのだろうか。後悔はあんまりないけどさ。

 

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「私…私ね…トーマくんになりたかった です」

 

 KAITO / 青のフラッグ 4巻24話

 

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 ときどき、人間そのものに憧れてしまうことがある。

 

 誰かのなすことすべてが素敵で、その人の感覚を自分のものにしたくなる衝動に駆られ、言葉や行動の選び方をマネすることがある。そうしているうちに、いつか自分も同じように生きることが出来るんじゃないかって。

 

 はじめは恋愛感情の一種だと思っていたけど、時間が経つにつれて、その人に抱いていた気持ちは憧れだったんだなと気づく。一緒に居て満たされたいというより、自分は誰か素敵な人と同じようになりたかった。

 

 いまも無意識下のうちに、過去に出会った素敵な人たちのふるまいをマネて過ごしている。自分を構成するいくらかは、そんな人たちの影を追い、自分ひとりではたどり着かなかった要素のコレクションだ。

 

 もう会うことのできない誰彼も、きっと自分の一部として今も息づいているのだろう。そう思うと、すこし心が暖かくなる。

 

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