クズに生きる自由
「望まれる子供のすがた」
・元気よく外で遊ぶ
・人の喜ぶことを進んでする
・家族、友達、先生を大切にする
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小学生の頃、教室にこんな感じの標語が掲げられていた。
細かい文言は覚えていないので適当に考えたのだけど、いかにも教科書に載せられるような子ども像を感じる内容だったのは覚えている。あと、「望まれる」という単語があったことも。きっと、ここに書いてあるようなふるまいをするのが、正しい姿なんだなって思っていた。
けれどまあ、実際の教室には「望まれる子供のすがた」を体現するような子は、そんなに多くない。人のイヤがることを進んでする子はいるわ、周りの人をいつも困らせるような子もいた。自分にしたって、元気よく外で遊ぶような子ではなかった。もしかしたら、みんなして「望まれない子供のすがた」をやっていたかも。そして、そのままみんなオトナになっていった。
あの標語を見て、「望まれる子供の姿」になれた子って、いるんだろうか?
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誰かが世間的によしとされない行動をとったとき、そこに向けられる大げさな反応が苦手だ。
仕事や学校をサボった、何か物事から退く選択をした、素性のあやしい人と結婚した…、そんな報を聞いて、我が事のように批判したり、嘆いたり、怒ったりする人がいる。「あの人はどうかしてる」なんて、眉を八の字型にしてみたりする。テレビのコメンテーターがしたり顔でコメントを出し、それにうなずく人たちによってワイドショーの視聴率は伸びていく。
そんな反応の源には、「望まれる大人の姿」みたいなものがある気がする。定職について、決して安くはない税金や社会保険料を払い、誰もが認める素敵なパートナーと結婚して子を育て、何か人々からの人気だとか高尚さを獲得している娯楽を楽しむような大人を、みんなで目指していきましょうね。みたいな。
そして、そこからドロップアウトした人を見つけると、たちたち感情の的として扱ってしまう。噂話を楽しむ対象として、罵詈雑言を浴びせる攻撃対象として、はたまた持て余した慈悲の念を向ける対象として。
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もちろん、時として行動を変えさせるような評価や言葉かけが必要なときもある。
とくに、他者を傷つける行動は明確に否定されなければならない。盗みや殺しなどの行為にかんする自由は、みんなで平和に共存するために社会に預けている状態だ(不当に奪われている権利もおおいにあるが)。
しかし、それ以外の行動はどうだろう。何かの行動について本人が納得していて、それによって誰かが傷つくような思いをしていないとき、わりに自由に過ごしていいはずなんだけどね。たとえそれが、クズ呼ばわりされるような生き方でも。
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冒頭の文章を打っていたとき、小学生の頃の自分に対して、「もっと活発になったら?多少面倒を起こしてもいいからさ」なんて感想を抱いてしまった。けれど、もし実際に声をかけることが出来たとしても、そんなことは言うべきではないだろう。
今の自分はもうオトナだ。
そんな人の望む姿になんて、なってくれるなよ。