わるあがき
ファンレターに、「あなたのピアノを聴くと泣けてくる」と書いてくる人がいる。この人たちはまだ涙が残っているんだ! なんて思う。私なんか泣きすぎて、一粒だってでてこない。涙が枯れちゃった。
最近は猫が死んでも、一滴の涙もでないくらいよ。
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「俺さ、もう40歳くらいまで生きれたらいいかなって思うんだよね」
最近会った友達が、こんな風に漏らしていた。
身が入らないけど量が多い仕事ばかりに気を取られ、とくに生活に楽しみがない。続く毎日も、これから先のことも、何か目指すものがあるわけでもなくて、ただ過ぎていく日々を眺めているらしい。
生きる死ぬまでの話でなくても、他の人とも同じような話題になるのはしょっちゅうだ。何か生きがいがあればなあ、熱中するってどんな感じだっけ、何かのために生きれたら…、なんてね。
そうだよなあ。何かのために生きてるって気持ち、ちょっと持ちづらくなってるのかもしれない。
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何か楽し気なことを相手にしているとき、ふと「今やっていることは、過去に楽しく感じたことの焼き増しでは?」という考えにとらわれることがある。過去にあった楽しかったことをそのまま再現して、「うん、いま自分は楽しいことをしているんだ」なんて思いこむような感じ。
なにも楽しいと思われることに限らなくてさ、何かに熱をあげることとか、はたまた何かを愛することも同じだ。「自分は今、好きなことをしているんだ」って、妙に冷めた知覚をすることがある。
たぶん、何かの感情にすべてをさらわれて、気がついたら時間が過ぎているような経験があると、そんな風に思いやすいのかもしれない。前はこんな風に客観視する余裕もなかったのに、今はどうにも淡々としてしまっているような気がしてしまって。
別にさ、冷静に抱いた気持ちだって、自分の抱いた気持ちには変わりないのにね。
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とはいえ、自分が正対している物事があまり変わらないのも事実。
学生の頃は、何年かに1度は卒業なり入学があって、そのたびに付き合う人も物事もガラッと変わった。そして、目に映るすべてが変わってしまっても、また少しずつ楽しいこと、小さな成功、ちょっとした苦労なんかを積み上げて、たまにあう感動を噛みしめていた。
それが社会人になり、少しずつ生活は同じような模様になり、うかうかしていると変化をも望まない暮らしになってしまう。
どんなことが楽しいことは分かっているし、それを再現すれば楽しくなれる。物事の頑張り方も、何かを愛する方法も、そして上手くいかない時に諦める方法も、ある程度は分かってきた。それだけ、いろんなことをやってきたもの。なんだかさ、世の中は意外とシンプルに回っているなんて気づきすらあるぜ?
ほんとに?
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大人になって、知識と経験則をもって物事を分析し、自分を安心させる力は得ることができた。
「自分はこんな人間だからな」とかって自分を規定して、「こういうことは、えてしてこういう結末だからやめとこう」とかって的確な状況判断までしちゃってね。ケガしたくないもんね。
そんなことばっかしてたら、状況に答えを出さないで、実体のない感情に身を任せる状態には、ほとほと弱くなってしまった。
うっすらとした欲…ともつかない感情に身を任せて、何か結実する見込みもないまま、興味がある知識を集めたり、何かの技術を磨いたり、縁があった人のことを想ったり、そんなことを続ける余裕とか気力を、気がついたら失ってしまっている。
そもそも、何か大きな感動に至るきっかけは、なんとなく始まったことばかりだ。大金をつきこむことになった趣味も、替えがきかない人付き合いも、はたまた最終回が楽しみなドラマにしても、最初はなんとなく始まったこと。「よく分からないけど、なんとなく気にかけておこう」くらいの気持ちを抱えているうちに、大きな存在になってしまったのだ。
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なんだか、花に水をやり続けることみたいだ。
子どもの頃は、種が芽を出して育っていくだけでうれしくて、無邪気に明日を楽しみにしながら水をやり続けることができた。そしたら、なんか花が咲いたりした。
やがて、花が咲くことを前提にして、種を植えるようになった。咲く花が好みじゃなかったら最初から植えないし、熱心に水を与えすぎて腐らせてしまったことも脳裏をよぎる。そうして、育てるのが面倒くさくなって何も植えなくなったりもする。
そうなるくらいならさ、もういいじゃんね。
何を咲かすでもなく、育てたいから育てる。
明日枯れるかもしれないけど、なんとなく世話を焼いてみる。
なんて感じでもさ。
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夢中になることはなかったけど、
達成感と実りのある勉強があった。
思いつきで出かけた高い山の頂で、
息を吞むような景色に出会った。
終始落ち着いた付き合いだったのに、
別れがひどくツラかった人がいた。
なんだ、動機がふわふわでも、自分を保ったままでも、しっかりいい体験してるじゃん。
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もし、人生のあれこれに限りがあるとしても。
流せる涙の量、何かに夢中になる時間、大切だなって思える人の数、そんなものに上限があるとしても、おれは何かに手を伸ばし続けるよ。
だってさ、カタルシスが得られなくても、そこに至る気持ちを楽しみたいもの。何かを手放すその日まで、あるいは手が届かなくなる日まで、暖かい気持ちをもってすべてを抱えていたい。
死ぬ間際まで、花に水をやるように生きてやるからな。