とっさのひとこと

 つくづく、文章の世界では自由に自分を表現出来るのになあ、と苦笑いをする日々が続いている。

 

 このエッセイ集も折り返し地点。ふだんは言葉にするテクニックも場所もないようなことを、スルスルと頭の外に逃がすことができている。掲載日の何日も前に書きあげているから、数日経ってから修正することも自由自在。最終的には納得した言葉だけを伝えることができる、素晴らしい仕組みのなかを過ごしている。

 

 こと日常会話になると、一発勝負で瞬時に答えを返さなければいけない。正しく簡潔な返答が求められるリアルおしゃべりの世界は、30歳を超えた今でも苦手なままだ。たとえ自分にとって正確な表現で答えが返せても、長い返答なんかしたら誰も聞いてはくれない。そうして、思考の大部分を停止させて、場がつながるあいづちに終始するようになる。「ああ、いいと思いますよ」とかってね。そんなのは全然自分として存在できていない。

 

 けどまあ、案外同じように日々を過ごしている人も多いのかもしれない。ちょっと前に、ふだん職場で手短な会話ばかりしていた人からお手紙をいただく機会が続いて、そのたびに普段は感じることのできなかった人物像を垣間見ることができた。丁寧に選ばれた言葉と、きれいに整えられた文字。こんなふうに物事を伝えたい気持ちもあったのだと、暖かい気持ちになれた。

 

 そういえば文章を書くときって、言葉の選び方もこだわれるけど、そこに込める感情の量もコントロールできるのがいいよね。会話のなかだと、ついなんでもないことを重要そうに言ってしまったり、なんか怒ったり茶化したりしたニュアンスが紛れ込んでしまう。逆に、すごく大切なひとことに、重みが出せなかったりもするし。

 

 なんか、会話するのイヤイヤ~って言い続けているみたいだな。もちろん話しているなかでの気づきもあるのよ。日頃、ありとあらゆるところから入ってくる情報が消化出来なくて、自分の言葉でなかなか表現できないことも多い。何かにふれた時の感想が言葉にならなくて、その対象に抱く気持ちが自分でもわからなくてモヤモヤすることがある。

 

 そんなとき、誰かとの会話のなかでとっさに口をついた言葉が、実は自分が一番しっくりくることだったりする。過去に自分を通り抜けていった言葉にならないトピックも、実は自分の土壌には確かに染み込んでいて、それが言葉になるトリガーが他者との会話だったりするのだ。内省は過去の反芻でしかなくて、ひらめきは対話に宿ることが多いのかも。そんな瞬間を求めて、一発勝負の会話の世界に気後れせず飛び込んでいってやるかと、無理やり気合いを入れてみる。

 

 自分の殻の中に閉じこもって生きることも、他者とのコミュニケーションだけに身を沈めて生きることも、どちらかに偏重することは難しい。不得意なほうをどうにかこうにか楽しいようにとらえなおすのも、なかなか限界がある。

 

 もうなんか、苦手な会話を苦手にしたままで、たまに遭遇するスイートスポットを反芻して切り抜けていくのも、ひとつの生存戦略として開き直ってやろうじゃないか。