村上春樹

 かれについて話すのは、少し気が重い。

 

 ***

 

 村上春樹の本をはじめて読んだときのことは、もうすっかり忘れてしまった。高校生の頃に出会ったバンド友達の前略プロ・フィールかなにかに、「好きな本:村上春樹羊をめぐる冒険」と書いてあった記憶がある。もしかしたら、それをきっかけにして、図書館で借りたのかもしれない。あるいは、もうすでに読んでいて、「この子好きそうよな~」なんて感想だった気もする。いずれにしても、気がついたら僕は村上春樹の小説を読みふけるようになった。たいしたことじゃない。

 

 それから、大学生の頃に氏の代表作はだいたい読み通した。グラタン皿の端のホワイト・ソースをすくいとるように、あるいはくたびれた井戸から真水を汲みだすように、村上春樹のテキストに没入した。いま思うと、登場人物が持つ多面性にスポットを当てた作風が好きだったのかもしれない。アルコールやセックスを洒脱に描きつつも、自然のなかで時間を過ごすことを楽しむ場面も多かったり、エキセントリックな人物に辟易し観察者的に振る舞いつつも、そんな人物の失踪にふれて涙を流したり何か行動を起こしたり、そういった描写が。

 

 ***

 

 文庫本6冊にわたる「1Q84」をなんとか読破したのを最後に、村上春樹の小説をあまり読まなくなった。小説のなかで定型化している女性と男性の描かれ方に気が向いてしまうようになったからだ。どうして、毎回女性ばかりが失踪したり、周囲の人物を振り回すのだろう。どうして男性はそれを毎回嘆き、成長の鍵にしていくのだろう。

 

 平凡(と自覚している)な若い男性の主人公が、女性や老人、子どもといった人物を通して、さまざまな体験をしていく。そういったストーリーに潜む特権性を感じて、ついストーリーに没入できなくなる。人々の属性が、ストーリーのために消費されていないか。

 

 けれども、ひとつひとつの文章表現には惹かれてしまう。何かのシーンが、自分の一時期を支えになってくれたこともあったと思う。そんな村上春樹という存在は、自分のなかのひとつのジレンマだった。

 

 ***

 

 過去に持っていた自分の感情を、今の価値観で断罪すべきなのだろうか。

 

 物事への反省は必要だ。そこから次に向けた学びがあるとしたら、それを血肉にして、これからどう生きるかを考えたい。昨日までの自分と、明日からの自分がまったく違う価値観を持つ人間になることもあり得るし、それは肯定的に捉えられるべきだと思う。変節上等。アンチ無意味な一貫性。

 

 けれども、過去に自分が抱いた感情は、それはそれとして胸に残りつづける。自分の一部となった過去について、呪いのように背負う厳しさを、おれは持ち合わせない。今は違う思いを持つけれど、自分が過ごしたある時間を占めた存在を思い出すとき、その事実自体には肯定的なスタンスでいたい。誰に話すわけでもなく。

 

 (今めちゃくちゃ人に見える文章にしているが)

 

 ***

 

 フルニエの流麗で気品のあるチェロに耳を傾けながら、青年は子どもの頃のことを思い出した。毎日近所の河に行って魚や泥鰌を釣っていた頃のことを。あの頃は何も考えなくてよかった、と彼は思った。ただそのまんま生きていればよかったんだ。生きている限り、俺はなにものかだった。自然にそうなっていたんだ。でもいつのまにかそうではなくなってしまった。生きることによって、俺はなにものでもなくなってしまった。そいつは変な話だよな。人ってのは生きるために生まれてくるんじゃないか。そうだろう?それなのに、生きれば生きるほど俺は中身を失っていって、ただの空っぽな人間になっていくのかもしれない。そいつは間違ったことだ。そんな変な話はない。その流れをどこかで変えることはできるのだろうか?

 

村上春樹 / 海辺のカフカ

 

 *** 

 

 ところで、いわゆる村上春樹的な小説な苦手な人は、エッセイ集とかだと読みやすいかもです。デビュー初期~中期にかけての「村上朝日堂シリーズ」、海外で過ごした数年間をまとめた「遠い太鼓」は結構好きです。あと、地下鉄サリン事件の体験者へのインタビュー集である「アンダーグラウンド」は、ひとつの史料として貴重なものではないかと思っています。

 

f:id:ogaki375:20220120230205j:plain