散らない花

花に嵐のたとえが良く似合う
さよならだけが人生さ
そうさ いざ
騒ごう 叫ぼう 声を枯らしながら
別れの言葉はない

さよならだけが人生さ / cali≠gari

 

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「さよならだけが人生さ」という言葉がすきだった。

人生を歩む中で、かかわる人や物事はめまぐるしく移ろっていく。そういった別れの繰り返しこそが人生だ。綺麗な花も、嵐に遭えばそれまでのこと。いつか来る別れを想い、ともに在る時間を尊くかみしめていこう…そんな風に捉えていた。

たぶん、この言葉が刺さった頃、おれは時間の遠近を問わず、いつか来る別れのことを意識することが多かったのかもしれない。「どうせいつか終わるのなら」とエンジンを入れたり、いよいよ迎えた物事の区切りに腹をくくったり…。いつだって、あくせくと目の前の物事を消化して、健全に新陳代謝を回そうとしていたんだろう。

ところがどっこい。今になって自分の抱えているものを見渡すと、どこかに置いてきたはずのものがたくさんある。涙の別れをしたはずの人や、封印したはずの物事が、当たり前のように今もそばにある。それどころか、着々と根を張って、自分の中に存在している。

もしかして、さよならだけが人生ではなかった?

 

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「辞めてないから、続けてるんだよ(笑)」

自分が今もバンドを続けているという話になったとき、ちょっと自嘲気味にこう答えてしまうことがある。話の相手は実にいろいろな反応をするし、時には困惑させてしまうこともある。けれど、自分にとって一番しっくりくる答えはこれなのだ。

別に、同じことをずっとしているわけではない。いろんなバンドに顔を出したし、新しい演奏法や機材もちょっとずつ取り入れている。そうして、自分なりの成長を楽しみつつ、古い友達との演奏にフィードバックすることもある。常に新しい自分で、音楽や仲間と向き合うようにしている。でなきゃさ、さすがに飽きちゃうよ。

これでも一応、社会人になった時に一度、バンドには区切りをつけていたのだ。もう十分頑張ったよねって言いながら、組んでたバンドも全部おしまいにして。


ところが、辞められなかった。


どんないきさつかは忘れたけど、どうにもまたバンド活動をすることになった。自分にとってどんくらい本意だったかも覚えてないけど、とにかく自分はまたバンドマンになったのだ。お金も時間も労力も、割と使うというのに。

そうしたら、どうすれば無理なく楽しく続けていけるか考える方に、ギアを入れられた。封印することより、続けることにエネルギーを使いたくなった。そうして、ほどほどに熱を持ちながら今に至る(あ、でも新型コロナのせいで全然活動してないから、今よりちょっと前に至る、という方が正確か)。

 

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今、自分が持っている物事って、どれくらい自分で選んだものなんだろう。

生まれてから今まで、実にいろんな物事に出会ってきた。そして、どういうわけか離れていったものと、手元に残しているものがある。

小学生の頃に野球のグローブを買ってもらったとき、それなりに親や友だちとのキャッチボールを楽しんだはずなのに、とくに野球に入れ込んだことはない。またある時、過去最大に増えた体重への危機感から始めたジョギングは、今となっては走れない日が続くと落ち着かくなる。おいしいワインを飲んだことがある気がするけど覚えていなくて、おいしかった日本酒のことは覚えている。いまでも飲みたいと思う。


自分が何を手元に残し、何を置いていったのか、説明がつくことの方が少ない気すらある。


日々、生活の中で絶え間なく何かしらの選択をしている。その日食べるもの、話す相手、手をつける仕事や自分の用事、何を笑い、何を嘆くか…。だいたいは、自分の望むものを選ぶわけだけど、時として不合理な選択をすることがある。けれど、手元にあるうち、自分にとって重要なパーツになることがある。

そんなことを思うと、「よく分からないけど、このことをおしまいにしよう。お別れにしよう。とは、なぜか思えなかった」という言い草が、とても論理的にすら感じてしまう。


人間関係にしてもそうだ。いろんな理由があって、「この人とはもう会わないんだろうな」って見送った人も、何か関係性の捉え方が変わって、また続く間柄になったことが何度もある。そして、関係が復活してから得られた果実もある。前とは違った形で、一緒に楽しい時間を過ごしたこと、自分が知らなかった音楽や本、考え方だとかを、再びもたらしてくれたこと。

 

どうだろう。出会いと別れを繰り返すことって、当たり前のことなんだろうか。

 

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去年、「窮鼠はチーズの夢を見る」の劇場版を観た。

激しく情熱的に恋愛感情をぶつけて、限界を迎えたところで関係を絶つ人物がいる一方、穏やかに気持ちを重ね続けた人物の方が印象に残っている。そんな形もまた、とても愛情深いような気がして。

 

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何かに区切りをつけるという行為は、自分にとって多くのエネルギーを注いだ物事に対してのみ、浮かんでくる選択肢だ。

スポーツや勉学だったり、あるいは恋愛関係であったり…。自分にとってはバンド活動もここに入るな。人が短期的な目標に向かうとき、日常生活ではとても出せないようなエネルギーが発揮され、その猛然さが持つ美しさみたいなものだってある。

しかし、それがすべてではない。

さよならの先にも日々は続くし、少なくとも自分自身は存在し続ける。そのうえ、必死に取り組んでいた対象も、意外とその先の人生にしっかりと残るのだ。そうしたとき、刹那的な魅力とは違った輝きを知ることがある。だったらさ、さよならを言わないことについて、こだわることがあってもいいんじゃんね。

おれが過去にこだわったあれこれは、今となっては強くつながれる存在ではなくなった。けれど、つながっていたい。そういった思いを粛々と積み上げることが出来るとしたら、一体どこに行けるんだろうか。

 

花は散るから、美しい。

なんて物言いを、もうおれは信じていない。


花は美しければ、いつまでも美しい。

それだけでいいよね。

 

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思い出と生き方はいつも 釣り合わないものだ
何度でも間違えればいいさ
星がいま 流れたよ

魚群は光る なだらかに動いて
心の隅を撫でるように 言葉を残す

あれから 何年経っても何故か 思い出せないのは
その言葉より あなたの笑顔


潮風のアリア / くるり