みんな

「みんなで運動会を成功させよう!」

小学生の頃、こんなフレーズを聞くと内心怯えていた。クラスメイトの熱気についていけるかどうか。ダンスがうまく踊れるかどうか。クラスの中心にいる野球チームなんかに所属している子から、運動が出来ない自分が白い目で見られないかどうか。そんなことばかり考えていた。

「みんな」から爪はじきにされることを、とにかく恐れていた。

 

***

 

オリンピックが始まった。

開会式の日はたまたま友達がうちに来ていて、気の抜けたレモンサワーを飲みながら選手入場を眺めてた。国ごとの衣装から、その地域の文化のことを話し合ったり、地図帳を引っ張り出して国の位置を確認したりしていた。「チャイニーズ・タイペイ」の呼称をめぐるニュースは、今でもいくらか積極的に目を通している。

けれども、それ以降のシーンは、考えるとしんどくなる場面が多かった。

セレモニーの節々で登場した、エッセンシャルワーカーや被災地の子どもたち、聖火台に火を灯した大坂なおみさん。彼ら・彼女らをここに立たせると決めた、どこかのエラい人たちの思惑。実際に、オリンピックの影で置き去りにされているのは、どんな人々だったか。けれど、それによって、勇気づけられたと感じる人がいること。感動よりも、実効的な施策こそが必要なのに。勇気づけになるのに。

きっと、オリンピックにかかわるアスリートやスタッフたちは、大きな感動をもたらしてくれる。けれど、それを動かしているどこかのエラい人の存在と、裏で置き去りにされている物事を思うと、「ああ、おれはいま感動させられてるのだな」という思いにとらわれる。平和の祭典が開かれるほど、世間は平和ではない。

 

***


「みんなで定期ライブを成功させよう!」

大学生の頃、軽音サークルの幹部として部員たちに呼びかけていた。

「おれはこう思ってるからさ」って言うべきところで、「みんなこう思ってるからさ」なんて言ったりしてさ。自分の思うことが、その集団の正義と一致している(と思い込んでいる)状態、なんか自分が大きくなったみたいだったな。それを、あの頃は誇らしく感じていた。

あの頃の自分が、いろんな人を置き去りにしてしまったのに気づいたのは、だいぶ後のことだ。内輪的な熱気に馴染めなくてサークルを去った人や、少ない出番を大切に演奏してくれた人、そういった人たちに、自分がいた立場から、もっと何か報いることが出来たんじゃないかって。自分の出番のことしか考えてないような人を、どうしてあんなに持ち上げていたんだろうって。

今はもう、「みんな」という主語を使うと、胸がきしっとする。

 

***

 

いざ競技が始まると、いよいよ自分の関心はオリンピックへ向かなくなった。

別に禁欲的なものではなくて、もともと自分はスポーツにあまり興味がないし、世間話のネタをストックするほど渡世にも興味がない。そのうえで、オリンピックの開催そのものへの懐疑的な考えがあるから、オリンピックに関連する情報を遮断することはそんなに苦にならない。

けれど、競技自体に興味があったり、周囲の人とメダルの数とか選手のプロフィールで盛り上がりたい人(あるいは、それに合わせるのを強いられてる人)が、理性的にオリンピックを拒絶するとしたら、きっと葛藤があるんじゃないかな。

自分がどうであれ、周囲の人は普通にオリンピックを楽しんでいる。普段から連絡を取るような友達はそうでもないけど、職場に行ってみたり、SNSを開いたりすると、オリンピックの話題で持ちきりだ。

不思議なものだ。ちょっと前まで「今、オリンピックをやるのはアカンやろ」みたいな話で持ち切りだったのにね。いざ始まってしまえば、いままで黙っていたような人までオリンピックの話をしだして、「オリンピックいいね!」が多数派になってしまった。

こんな風に、社会が一変してしまうこともあるのか。とてもこわい。

 

***

 

「みんなでオリンピックを成功させよう!」

誰かが大きな主語を使うとき、その周りには同調する人しかいない…なんてことはないだろうか?

運動会を引っ張るクラスメイトの周りには、それをはやし立てるグループがいたし、軽音サークルで虚勢を張る自分にも、「この人たちとサークルを盛り上げていくんだ」と思える取り巻きがいた。

きっと、オリンピックをゴリ押ししてきたエラい人の視界には、それに同調する人しかいない。間違っていることが、組織的に許容されて大きくなり、やがて露見した構図を、これまで幾度となく目にすることになった。

そんな状態で定義された「みんな」の当事者って、本当はそんなに多くないはずなのに、力を増すために多くの人を取り込もうとする。そして、視界にも入っていないまま含まれる人ができて、踏みつけられてしまう。オリンピックのために動く社会を眺めていた違和感は、ここにあったのかな。

社会のために人があるんじゃなくて、人のために社会があるはずなのに。煌びやかな祭事のためじゃなくて、一人残らず存在が担保されるために社会があるはずなのに。

 

***

 

線路沿いの鉄柵には、オリンピックのポスターが掲げられていた。みんなで盛り上がろう、みたいなスローガンを見て、きも、と思う。こういうときだけ、みんなのなかにぼくを含むな。もみくんを含むな。

くそみたいな国め。

ぼくをくるむ人生から、にげないでみた1年の記録 / 少年アヤ 著