傾聴

 学生の頃、自分の話で人を笑わせることばかりを考えていた。

 

 隙があれば冗談を飛ばして、何かおもしろいと思ったことがあれば、すぐさま周りの人に早口でまくし立てていた。今思えば、全然空気が読めていなかったことや、下品な笑いの取り方をしていたことも数えきれないくらいあって、本当に穴があったら入りたいくらいだ。当時付き合いがあった人に会う気まずさの何割かを占めている気すらする。そんなん、今となっては気にならないし、そもそも覚えていないのにね。

 

 なんというか、おもしろい話が出来ないと、人が寄ってこないと思っていた。いつもいろんな人に囲まれて、ドカンドカンと笑いをとるような人が羨ましかったし、自分自身もそういった人のそばでゲラゲラ笑っているのが好きだった。

 

 あの頃も、自分のペースで会話に参加する人だとか、静かに話を聴いてくれる人も、そばにいたはずなんだけどな。

 

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 それからどれくらいの時間が経ったかはわからないんだけど、いつしか相手の話を盛り上げることにおもしろさを感じるようになってきた。

 

 踊るさんま御殿の、明石家さんまみたいになりたかったんだと思う。誰かが話すとっておきの話はもちろん、なんでもない表情でこぼした一言とか、話した本人も「オチがない話なんだけどさ~」なんて言いながら始める話も、どうにか盛り上げようと考えてばかりいた。

 

 誰かの話を深掘りしていると、本人も忘れていた物事や、気づいていなかった思いだとかにつながることがある。そんなとき、ひそかに達成感を感じていた。自分と話したことによって、いまこの気づきが得られたとしたら、なかなかいいことしてるんじゃない?なんてね。

 

 けどまあ、そんなことを自覚し始めると、だんだんその傲慢さが恥ずかしくなってきた。そもそもその気づきも、あくまでおれが敷いたレールに基づくストーリーであって、本人が抱いている筋書きとは違う。なんでもないことを、さも大切な話にさせてしまったり、本人がずっと暖めていたことを軽く流してしまうことも、きっとあったんだろうなと思う。

 

 この頃も、自分の話を聴いてくれる人は、なにもギラギラするでなく、好きなように関心を向けてくれていた。だんだん、そんな人たちの存在が貴重なことに気づき始めてきた。

 

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 最近になって、相手の話をそのまま受け取ることに関心が向くようになってきた。相手が話す何がしかの物事と、そこへの思いまでもを、そのまま受け取ってみたい。自分では体験しがたい他者の感性を、せめて会話からでも覗いてみたい。そんなふうに思う。

 

 誰かとコミュニケーションを取るとき、笑いとか悲しみとかの感情でつながれたらわかりやすいし、きっとそういった安らぎを求めることも多いのだろう。けれども、そのわかりやすさのために切り捨てられてしまう要素までも、どうにか共有したいのは求めすぎだろうか。

 

 笑いもオチもないけれど、訥々としたほんとうの話。

 

 そういった話と出会えたら、どうか丁寧に耳を傾けたい。

 

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