知と怒り

 

 いつの頃だったか、もっと多くの物事を知れば他者にたいして憤ることが少なくなるのではと考えていた時期があった。

 どちらかというと内向的で友達が少なかったのは子どもの頃くらいで、やがてそれなりに人付き合いが多い方になった。日々代わる代わる人が現れては、自分が思いもしないような考えを置いていく。ときには理解できないような言動をする人に出会うこともあって、憤りを覚えてしまうことも少なからずあった。

 

 そんなさなかだっただろうか、「優しさとは知識である」という考えにふれることがあった。知識があることで相手の立場への想像力が豊かになり、相手を慮ることができるようになる…といった論旨だったと思う。なるほど、たしかに自分には学がないから相手のことが理解できず、ただ自分が理不尽な態度を取られと嘆いてばかりだったように思える。少年怒りやすく学成り難しってか。ちょっとは他者のことを理解出来るようになるためにも、あらゆる知識を得ていこうではないかと思うようになった。

 

 静かに決意を立ててから数年が流れた。

 何かを学ぼうと意気込んた機会はそう多くないけれど、関心が持てる分野の本はすぐ読む習慣がついたこともあってか、はたまた曲がりなりにも社会経験を積んだからか、自分にもいかばかりの知見が積みあがった。歳とともに、相手が置かれた立場を想像するときの解像度も増したような気がする。

 

 しかし、内心に現れる憤りのような感情とは訣別できなかった。むしろ憤りですら解像度を増して自分の感情をかき乱す。どうしてこの人はこんなにも不誠実な行いをするのだろう。なぜ自分はこんなにも怒っているのだろう。そんな思考が以前よりも勢いをもって頭のなかを駆けまわる。

 

 結局のところ、知識は各人が持つ主義を補強する装備のようなものだと腑落ちするようになる。具備した知識により、人はより優しくもなるし、より厳しくもなる。銃弾も通さないように思えてしまうような鉄壁の理論武装をもって苛烈に他者を責め立てる人を見ると、知識が優しさに直結するとは言いがたいものだ。逆に、まだ多くのことを知らないであろう子どもが、誰かの落とし物を即座に拾って追いかけることだってある。それを優しさと言わずなんと言おうか。

 

 どうやら、自分が持つ憤りは知識だけで訣別しうるものではなかったらしく、静かに始めた試みは静かに挫折したのであった。しかしそれは決して徒労ではなく、ときどきで憤りの質感を変える結果をもたらした。以前は他者の言動についてその当人の人間性を観てばかりだったのが、だんだんとその背景にあるものに目が行くようになったのだ。

 

 誰かの言動にふれて、どんな環境がこの言葉を言わせたのだろう。他にやりようがあったのに、この行動を選んだのには理由があったのではないか。自分が呪うべきはこの人ではなく、もっと大きな対象なのではないかと考えるようになる。

 

 もし知識によって相手を慮ることができるとしたら、自分が感じた憤りの対象を相手から外すために知識を使うことなのだろう。憤り自体を消せるかどうかは、少なくとも別の軸で考えなければならないようだ。