子を育てない自分には

 

 子を育てない自分には、30代以降どう生きていこうかというロールモデルがなかなか見つからない。

 

 シングルでのびのびと生きる芸能人やアーティストのような形から、ささやかながら日々を着実に生きている人生の先輩たちの姿まで、選べる生き方は途方もなく広いように見える。子育てという軸がないだけで、こんなにも生き方は多様に見えてしまうのかと思うくらい。もっとも、子育てしている人々だってそれぞれに生きているのだけど、どうにも画一的に見つめてしまっているのかもしれないが。

 

 自分がどんなふうに生きるかを支える主義というか、哲学というか、そういったものは自分が出会ってきた人々からいろんな要素を吸収して、ぼんやりと形をなしている感覚がある。ただそれとは別に、自分が属している子育て世代という領域において、子育てをする人の生き方を対偶にとって自身の現在地を測ることがままある。

 

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 子を育てない自分には、気力も体力もあり余っている。

 

 なんせ自分も状況が違えば子どものひとりやふたり、あるいはもっと多くの人数を育てることが出来る能力があるはずなのだ。成長する子どもは日々刻刻と姿を変え、親である自身にたいして求めることはどんどんと移ろい、予期せぬ瞬間に難しい判断を迫ってくる。なんてタフな日々だろうか!でも、事実そんな毎日を子育てをしている人は過ごしている。いざそう思うと、自分は大切にしていることについて、子育てに使うくらいの力を使えているだろうかとふと立ち返る。

 

 べつに子育てをするかどうかは自由なわけだし、生きていくうえでどれくらい力を込めて過ごすかもまた自由だ。令和の世では、なるだけ頑張りすぎず緩く生きていくことを推奨する言説のほうがよく見かけるくらい。自分だって頑張りすぎて折れてしまうような場面はなるべく回避したい。きっと、これは子育てをしている層にとっても同じことだろう。

 

 むしろふと意識がピリッとするのは、自分が取り組んでいることについて「まあ自分のためにやっていることだしこのくらいで…」などと、妥協や甘えが芽生えるときだ。きっと子育てをしている人々は、何か子育てで課題があるときや、仕事や生活に追われて子どものことが後回しになるような場面でも、「いいや、もうちょっと頑張るればこの子のためになる」と奮起する場面があるんじゃないだろうか。そんなことを思うと、自分もまた何か情熱を傾けられる対象があるとき、ついダラッとしたくなる身を律するようになるものだ。

 

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 子を育てない自分には、他者と共有できるミッションが少ない。

 

 もし自分に子どもが出来たら、育てるという観点で行っても20年くらい、それが済んでも親子という関係は自分が死ぬまで続いていく。そんな覚悟をしなければならない。そして、もしパートナーがいればそんな途方のないミッションを共有することになる。

 

 とにかく長い時間を要するものだ。生活や言動の節々で愛情を積み重ね、ふとしたときに愛情が結実して感動を共有したりするのだろう。ときにはジッと事態の好転を待ち続けるような状況もあるのかもしれない。そういった長い長い道のりを、おれは誰かと共有することが出来るのだろうか。

 

 あいにく子育てのような密度で他者と共有できる物事は、そうそう思いつくものではない。あったとしても、それを共有できるパートナーとの出会いなんてそうそうありふれたものではない。だけど、誰かと分かち合った物事を大切に育てていって、気がついたら長い期間なっているようなステージは作れそうな気がする。

 

 まずはささやかなことでいいんだ。よく遊ぶ友達との関係が続くように、手を変え品を変え飽きずにいろんな方法で縁をつなぎとめる。一緒の趣味があれば儲けもので、どうすれば関心を持ち続けられるか考えてアップデートをつづける。恋愛感情が行き交う仲の人が現れたならもちろん、ずっと盛り上がりが続くように尽力する。

 

 なんとも疲れそうなことばかりだね。だけどさ、現実に子どもがいる人はせっせと子どものためにいろんなイベントを用意しているんだよね。子どものために週末のお出かけスポットを探し、一緒にアニメを観たりもして映画館に連れていくこともあるだろうし、何か興味の持てることを見つけてきたらどう応援するか考える。考え続ける。そんな労力を、おれはただ子ども以外の人に向けるだけの話だ。

 

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 子を育てない自分には、行き場を失った愛情が渦巻いている。

 

 出会った頃はたくさんの時間を一緒に過ごした友達たちも、かれらに子どもが出来れば子育てにかかる時間の方が多くなった。それは当然のことだし、むしろおれのことなんか放っておいて子どもにかかりきりになっていてほしい。

 

 けれども、そんなかれらはみな一様に優しくて、どこかでおれのことも気にかけてくれている。限られた時間でも会う時間を作ってくれて、どこかで話したことをずっと覚えていてくれたりする。そのうえで、我が子のことを存分の語ってくれるのだ。きっと、愛情にあふれたかれらは自分の子どもに愛情を込めて接して、それでもなお友達に向ける気持ちも持っていられるのだろう。そんなことを思うと、自分は他者をいとおしく思う気持ちをどこに向けていこうかと考える。

 

 愛情を定量化して扱うことなどできないのだけど、自身の子どもひとりを愛する気持ちは、親しいおとな数人分かそれ以上に匹敵するくらい大きいものとして扱われているように見える。実際、自分が子どもを育てていたとしても、友達やもしかしたら恋愛感情を持った相手以上に大きい気持ちを抱くことになっていそうではある。となると、子どもひとりを愛すると思って周囲の人に気持ちを向けたら、結構な数の人々に気持ちを寄せられるように思うのだ。

 

 おれは、自分の子どもに向けるはずだった愛情を、薄く延ばして細切りにして周囲の人に向けたいと思っている。なんだか愛情をうどん粉のように扱ってしまってみんな扱いに困っているようで、けっしてすべての人が受け入れてくれるわけでもない感じ。もっと濃密な付き合いを求める人は、現れても消えていった。それでも、おれの気持ちを受け取ってくれる人は、そんな距離感の付き合い方を楽しんでくれているようだ。

 

 細く長い仲とは、よく言ったものだね。