純度

 

 もう10人とかそれ以上の人数が集まる飲み会に行かなくなって、どれくらいの時間が経つのだろう。

 単に新型コロナの流行で一気に大人数の飲み会の機会が減ったのかしら?なんて思いつつ、たぶん何事もなくともそういう場からは遠のいていったようにも思う。実際、ここ1年くらいでじわじわと大人数の飲み会へのお誘いも戻ってきたけど、全部丁重にお断りさせていただいた。

 

 そのかわり、数人で食事に行ったり飲みに出る機会は増えた。ありがたいことにいろんな人からお誘いをもらったり、あるいは自分から誘ったりしている。食事でなくても、カメラを持って散歩しに行ったり映画を観に行ったりと、いろんな方法でいろんな人と話をする機会に恵まれた。その都度、めいっぱいその時間を楽しんでニヤニヤしながら家に帰れている。無理やり楽しもうと飲み過ぎることも減って、二日酔いに苦しむことはほとんどない。

 

 少人数の集まりに求めていることと言えば、その場に気が合わない人がいないことだ。おれはなにぶん偏屈さが過ぎる性分なので、その場に気が合わない人がひとりでもいると途端に気持ちが冷めてしまうのだ。大人数の集まりになるとどうしても気が合わない人がその場にいて、たとえそれ以外がみんな好きな人でも手放しで楽しめないのだ。

 

 思えば、気が合わない人をとことん避けたがるのは最近始まったことではない。何かの集まりに行くことになり、顔ぶれを見て正直行きたくないなあって気が重くなる場面はいくらでもあった。それでも、実際に一緒に過ごせば仲よくなるかも…なんて淡い期待をいだいたりもしたが、結局は満足に楽しめないまま帰ってくることばかり。そんな経験が積まれたうえに、リスクがある場に足を向けるだけの体力がもったいなくなってきた。それならば自分のために時間を使いたいし、あわよくば旧知の人との仲を深めたい。

 

 もし、気が合わない人のひとりくらい気にしないでいられて、仲のいい人がたくさんいる状況にピントを合わせられたらどんなにラクだっただろう。もっといろんな場に顔を出せて、楽しい時間を過ごせたのかもしれない。でもまあ、それはないものねだりだった。誰にピントを合わせても大丈夫な場を増やしていくしかなかった。そういえば飲み会からの帰り道のたびに「今日も馴染めなかったな…」なんて悩んでいた頃があったけれど、その頃は自分にしっくりくる場を見つけ切れてなかったのだろう。身を置ける場所が足りてなかったんだな。

 

 いまとなっては、自分が一緒にいたいと思える人と予定を組むだけで十分だし、それが窮屈になっている感じもない。仲のいい人とだけ広げられる世界だってあるのだ。狭い人たちのなかで共通言語をどんどん構築して、自分たちが過ごしやすい空気の純度をあげていく。そんなことを楽しむのもよいではないか。