おんなじにはなれないけどさ

 「○○のおいしさがわからないなんて、人生損してる!」なんて言いまわしをする人がいるらしい。身近にいないので伝聞調だけど、まあ近しい表現は聞いたことがある。

 

 別にまあ、こういう表現についてあーだこーだ批判することはできるとして、むしろなぜこの表現が便利なものとして存在し続けているかの方が気になる。そこには、明確な悪意ではなく、むしろ親切心すら見え隠れすることすらある。

 

 ん、親切心?

 さっきの例にあてはめると、「この食べ物を食べて、あなたにも損がない人生が送ってほしい!」といった感じになるのだろうか。うわぁ、押しつけがましい。自分がおすすめしたい食べ物について、相手の感覚でもおいしいと感じられるかわからないのに、自分の感覚を押し付けている感じへの違和感が、この論法への違和感の正体だったとも言えるのか。けど、まだなにか引っかかるポイントがある。自分がおいしいと思ったものをすすめる行為自体は、相手の幸せを願っているという時点では親切な行為としてとらえてもいい。ただ、相手が幸せかどうかを決めるのは、相手自身なのが抜け落ちている点なのであって…。

 

 ああ、そうか。

 そもそも、相手の幸せを願っての発言ではなく、自分がおいしいと思った感覚を補強するダシとして、相手を介在させているのが気にくわないのか。自分としては間違いなく味覚にヒットするけど、どうもひとりきりだと心細い。そんなとき、誰かにも一緒においしいって言ってほしい。けど、いない。ならば、「(あなたにも一緒においしいって言ってほしい!だから忠告するが、)○○のおいしさがわからないなんて、人生損してる!」という発言につながっているのではないか。

 

 自分の感じたことを消化するのに、何かを引き合いに出さないといけない脆さが痛々しい。けれど、手軽にそういった言動をすることだってあるのだ。現に、この文章だってそうだし。

 

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 自分の周りの人が、自分と同じ方法で幸せになってほしいなと思うのは、なんだかとてもありふれた話のように見える。食べ物の好みくらいだったらかわいいもんで、勉強や仕事の進め方を熱心に説いたり、結婚しない人によってたがって家族のすばらしさみたいなのを語る光景がある。

 

 けれど、人が何を幸せに感じるかって、人によって全然違うのだ。そんなん、言葉や概念で分かっているはずなのに、自分の幸せの感じ方を押し付けてしまうことがある。つい、幸せな仲間が欲しくなったりして。自分の幸福観を補強したくなって。

 

 ひょっとしたら、誰もがみんなで幸せになることはできるのかもしれない。

 けれど、めいめいが幸せに至る過程は、きっと千差万別なものなのだろう。

 

 それでも思うよ。みんなで幸せになろうよ

 おんなじにはなれないけどさ。