祝祭のお菓子

 子どもの頃、家にお客さんが来るのが楽しみだった。

 

 お客といっても、子どもである自分あての来客ではなくて、どちらかと言えば親目当ての来客。家庭訪問の先生だったり、親戚のおじさんおばさんだったり、親の友達だったり…。そういった人たちが訪れるとき、親はどこで買ってきたかもわからないような、ちょっとぜいたくなお菓子を並べて、お客さんが来るのを待っていた。そして、満を持してお客さんがやってきて、自分もご相伴にあずかる…ことはあまりなくて。自分にとっての楽しみは、お客さんを見送った後に、残ったお菓子をつまむひとときだった。

 

 普段はおやつに出ないようなクラッカーや横浜月餅の残りをかじりながら、「うちの親はどうしてこんなに高そうなお菓子を振る舞うのだろう?見栄?」などと考えていた。珍しいお菓子は確かにおいしいけれど、普段食べているお菓子に比べて飛びぬけておいしいわけではなくて、毎日食べたいとはさして思わなかった。なので、「まあようわからんけど、オトナの世界も大変よのう」と、なぜか関西弁になりながら流していた。

 

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 あれから20年くらいが経って、自分も来客をもてなす場面を経験することになる。

 

 誰が来るかとか、どんな時間帯で何が好みとか、そんなことを考えながらあれこれ準備をするのは、とてもワクワクするひとときだ。来客に限らず、自分が誰かを訪ねるときや、どこか遠くの街に出かけた時は、どんなおみやげを用意しよう時間をかけて考える。

 

 自分の場合、誰かのために何かを用意するエネルギーの源にあるのは、たまにしか会えない機会を、なるべくたっぷり楽しみたいという思いだ。相手に会える時間は限られているけれど、相手のことを考えながら準備をしているとき、少なくとも自分のなかに相手は存在している。そんな時間を楽しみたいのだ。

 

 労働と生活と疲労に振り回されるオトナになったいま、仲がよくても顔を合わせるのは、生きている時間のごくわずかだ。親しく思っている人のことは、仕事でエクセルを手繰ったり、ボーッと自転車を漕いだりしてるときにだって思い出すけど、そんな人に直接会えるイベントを、年に何回用意できるものか。そりゃ、いいお菓子のひとつくらい用意して、ちょっとでも特別な日になればいいなあって思うよな。

 

 おれの親は何を思って、あんなに大層なお菓子を用意していたのかは、いまだに聞けてない。ただ、たまに実家に家族が揃うごとに、時間をかけて用意してくれたであろうご飯のことを思い出すと、じんわりと心が暖かくなる。いま目の前に親はいなくとも。

 

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 どちらも地味で、あまり好みのものではなかったけれど、それからもいしちゃんは旅行にいくたびに、自信満々な顔でお土産を買ってきた。あるときはよくわからない龍の置物。あるときは印籠のレプリカ。あるときは暗い顔のこけし。それらは、いつだってぼくに語りかけてきた。

 

(とおくでも、わたしはあなたを思いました)

 

少年アヤ / ぼくの宝ばこ(講談社