あい変わらず季節に敏感でいたい

流れ行く四季の空。咲き乱れるは夢の花。
僕が意るあの場所は、
夜明けが近い荒野の果てに。

青春狂騒曲 ~青雲立志編~ / cali≠gari


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先週くらいから、外に出ると目が少しイガイガして、鼻がムズムズして、ノドの奥がヒリヒリする。もうスギスギ花粉の季節がやってきたのか。病院にかかる時間を見つけなきゃとスケジュール帳を開く。

今年の冬ももうすぐ終わろうとしている。

冬になると、ひとりで深く考え込んでしまうことが多い。日照時間が短いから内向きになる人が多いという一般的な統計とか、冬場の方が仕事が落ち着いて自由な時間が多いという個人的事情とか、いろんな要素が重なって「冬は自分と対話する季節」みたいなテーマを自然と持っていたみたい。このブログも、寒い季節の方が投稿することが多いしね。

ひとりで何かを考えている時。そんな明るい気分になれる時間ではないのだけど、別に荒れた気分になるわけではない。とても穏やかな気分で、普段眠っている思考回路がバチバチ繋がった時はとても爽快だ。そういった時の記録を、時にはここに書いたりもした。そして、冬にしか会えない自分が居ることを強く実感する。

思うに、季節によってスポットライトが当たる自分の姿みたいなものってあると思う。もっと言えば季節に限らなくて、特定の場所、匂い、本や映画や音楽、そして人によって呼び出される、自分の一面。そんな時の思いとか考えを、なるべく忘れないようにしたいなって思っている。

どの一面も、自分自身という存在の中で陸続きでつながっているから、決して断絶しているわけではない。冬の自分が考えたことを、夏の自分が理解出来ないわけではないし、いまだって、夏場のキラキラした気分を思い出して、少し暖かい気分になった。

しかし、なにか一つの分野において、自分でもハッとするようなひらめきや、自分自身を置いてけぼりにしてしまうような行動力は、何か条件が揃わないと発揮されないのだ。そういう意味で寒い季節は、内向きな方向にエネルギーが向きやすいのだ。そういったものを見逃したくないという話。

これから季節が変わって、自分が気を向ける対象も移ろっていくのだろう。もっと楽しい事ばかり考えたり、いろんな冒険に出るのかもしれない。そして、そんなことに疲れた頃、また冬の自分に会いに来れる。「おまえは暗いやつだなあ」とため息をつきながら、ゆっくりとコタツに収まるのだろう。


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一応このブログは通年営業なので、春になってもご愛顧くださいね。書くかは知らんけど。


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自分のことを考え切って、ふと外の世界に出ると、今度は周りの人がどんな人なのかを考えてしまう。

例えば、おれが感じている他人の情報が10あるとして、その10の正体とはなんなんだろう?

少なくともその10の情報が、イコールその人というわけでは絶対無い。100のうちの、1000のうちの、10を感じているのに過ぎない。はたまた、2くらいしか知らないことを自分の中で勝手に膨らました虚像を見ているだけかもしれない。

自己主張が激しくてうるさく感じてしまう人が、他人への慈しみを深く持つこともある。品行方正で真面目に見える人も、夜な夜な川に野良猫を放り込んでいるかもしれない。本人が出さない、あるいは自分がキャッチ出来なかったシグナルは、二者間においては存在しないけど、現実として確かに存在する要素なのだ。

とても当たり前のことを書いているつもりなんだけど、いざ他人を目の当たりにしたり、また頭の中で思い浮かべると、そんな冷静には居られない。少なくとも自分にとっては。


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前の職場でのこと。

もう何年か前、おれは2人きりの部署で仕事をしていて、うち2年間は二回りくらい年上の女性の先輩と仕事をしていた。自分が先にいた職場に、先輩が後から配属になったのだけど、前から共通の知り合いが何人かいて、先輩もおれも会う前からお互いに良い印象を持っていた。

実際に一緒に仕事を始めてみると、とても気が合う人で仕事が進めやすい印象だった。仕事に対する考え方も共感できたし、プライベートの話もたくさんした。料理の話とか、旅行の話、おれのセクシャリティの話、先輩の身体の大切な話。その頃は、お互いに考えも合うし、仕事もなんというか…褒め合ってばかり、いいパートナーを見つけたと感じていたと思う。

しかし、1年くらい仕事をしていくうち、おれが仕事で出すミスや、職場の人への接し方について先輩から注意を受けること増えていった。一方おれの中では、先輩の言うことに納得出来なかったり、前に言われたことを覆されたようなこともあって、不信感が増してしまった。

いつしか職場に向かうのも気が重く、部屋で話をする時間も減っていった。そんな日々をなんとかやり過ごし、逃げるようにして異動をしてそれきりになってしまった。

いま思い返すと、お互いにいい印象が溢れる出会いから始まったのに、どこかのタイミングで減点方式に変わってしまったのが苦しかったんだろうなって思う。そもそも、いい印象で出会ったから、その人を全部好きになれるだろうっていうのも、個々が抱える虚像が膨らんだだけであって、実際はそんなことない。認知のズレが無くなるにつれ、目につくところだって出てしまうのだ。

けれど、お互いの素を全部見せ合って、離れ離れになってしまって数年が経った今、どこかでまた先輩とゆっくり話が出来たらなあって思う。毎日会う仕事上の関係だから上手く行かなかったという要素もあるし、また仕事の話もそれ以外の話もしたいし、まあまあのダメ出しもされたい。

一緒に仕事をしていた頃、おれが1月に職場向けに書いた文章に「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。」と書いた時、「おめでとうございますって言えない人もいるからね。今年もよろしくだけでも挨拶になるよ。」って教えてくれたことがあった。この一言に、人への配慮を欠かさない先輩の人柄が見えたし、自分の中でも大切な気づきになった。

先輩はいつも言葉には厳しかったけど、それによって自分もまた人への表現方法を大切にしたいなって思いを強められた。そんな出会いって、なかなかない。ちょっと小うるさいなあとは思ってしまったけど。


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自分自身の今までの出会いとか、周りの人から聞かせてもらった出会いの話を思うと、「大切な人」ってなんなんだろうなって思う。

さっき書いた先輩にしても、関係性は良くなったり悪くなったり、でも否応なしに顔は毎日合わせ続ける。自分の中では好き嫌いを別にして、意識を多く持っていかれる関係だった。まあ単に「仕事の先輩後輩」で片付くから飲み込みやすいけど。

子どもの頃は、毎日家で家族に会って、毎日学校で友達と会う。ただそれだけだった。

けど今は、毎日会う人も、週に1度会う人も、1ヶ月に、1年に1度だけ会う人もいる。そして、1年に1度しか会えないけど、大切な恋人関係が成り立つこともあれば、本当は一緒に居たくない人と利害関係のあれこれで一緒に暮らすこともある。さらに、実際に会わずともSNSとかでの交流は盛んとか、性愛関係とか恋愛感情があるかとか、嫉妬心が伴うかとか、本当にいろんな要素がある。

人間関係っていろんな名前があるけど、全部にグラデーションがあって、「ここからここはこういう関係です」という風に名前がついてるだけなんじゃないかな。仮に誰かと結婚したとしても、それは結婚したから幸せなのではなくて、好きな人と一緒に居る誓いを立てられる関係を築けたことが幸せなんじゃんか。

さらに言えば、お互いがいいイメージを勝手に虚像として持っていて、会う頻度の少なさゆえにそれに気づかず良好に続く関係もあれば、人間性が全部白日に晒されて仲良くなることもある。でも、前者の関係で得た好意をニセモノと断じることも出来ない。それはそれだ。

こんな話があったな。最初はセフレだったけど、最近は会ってご飯食べたりするだけ。付き合ってはいないけど、お互い大切な存在ではあるという関係を聞いたことがあった。これって言葉には形容しがたい関係だけど、当事者はハッピーだし、その関係に苦しむ人もいない。そうしたら、すごい尊いものじゃないかと思う。

また、ただの友達なのに別の友達と遊んでて嫉妬する人って小学生の頃よく居た気がするけど、そういう人たちは今どうしてるんだろうか?そういう気持ちをまだ持っているんだろうか?

人と関わって生きていくうち、かけがえのない関係はこれからも増えていく。その一方で、大切に出来なかった関係は音もなく自然に消えていく。いま好きな人が1年後も好きかは分からないし、いま苦手な人が1年後好きになってるかも分からない。そんな中、一度できた関係の価値を信じ続けられることって、本当に尊いと思う。

無常に流れる時間の中で、離れ離れを思うことは寂しい。けど、寂しさだけでは人間関係は成り立たない。

なるべくなら長い目で周りと自分を見て、成長していかなきゃな。


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今年の冬もいろんなことを考えて、時には周りの人に考えを聞いてみたり、本を読んでみたりもした。

そんな中で、自分が思うがままにとってきた行動に、自分が持つ傾向への気づきとか、「私も同じ!」という誰かの共感とか、学術的な○○志向みたいな名前とか、なにかしらの説明がつくことが分かる機会に多く恵まれた。

それでも、自分が持っている感情…うれしさ、たのしさ、さびしさ、かなしさ、いとしさとかは、何ひとつ軽くならない。むしろ、説明がついたからこそ増幅してる気すらする。

20歳そこそこの頃は、「今のもやもやした気持ちが無くなったら、生きていて味気ないだろうなあ」なんて考えていたんだけど、それは見当違いだったみたいだ。おれはきっとこれからも、日々湧いてくる自分の感情と対峙して、笑ったり涙したり何も感じなかったりをしていくのだろう。

どうかずっと、自分の思いに素直なままでいたい。

…おまえは暗いやつだなあ。


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僕は僕の道を探す為に、
青雲の志を持って故郷を後にしました。
何度も、何度も、何度も倒れながら、
それでも僕は道を探し続けました。

山紫水明、白砂青松、花鳥風月。
この町には、『僕が暮らしてきた風景』は何一つとしてありません。
何度も、何度も、何度も郷愁に打ちひしがれながら、
それでも僕は道を探し続けました。

そして、ある日僕は気付きました。
ひょっとして道は、『何処にも無かったのではないか?』と。
僕が探していた道とは、
『決して目の前には無かっただけなんではないか?』と。

立ち止まって振り向いた時、
僕の目の前には長い長い道が続いていました。
最初から道は、僕と供にずっと一緒に歩いていたのです。

そして、これからも供に歩いていくのでしょう。
ずっと、ずっと、ずっと。


青春狂騒曲 ~青雲立志編~ / cali≠gari