何かをしている(何もしていない)

 こみ入った仕事をやっつけた帰り道、買い出しのためにスーパーに立ち寄ったときのこと。

 

 買うものはだいたい決まってた。朝食べるバナナとか、常備してる牛乳とか、わりといつも通りな感じ。だけど、その日は気がついたら、買い物カゴを片手にいろんな売り場をふらふらと渡り歩いていた。それも、売り物を眺めて情報を得るとか、物欲に任せてあれこれカゴに入れるとか、そういう目的はまったくない。ただ、川を流れる木の葉のように、すいすいと陳列棚のあいだを漂っていた。それも、わりあい何も考えずに。

 

 とくにカゴに何か入れるでもなく10分くらいふらふらした頃、ああそろそろ帰らなきゃと思い、そこからは手早く必要なものをピックアップしてお会計。パパっと袋詰めをして、停めていた自転車に飛び乗って帰宅した。いくぶん、職場を出た時より軽い足取りで。

 

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 スーパーで過ごした空白の10分間、おれは買い出しに仮託して、何もしない時間を過ごしたくなったんだと思う。途中までは確かに買うべきものを探していたのだけど、だんだんと「ああ、今は牛乳を探してさえいればいいのだ」という状態に、いろんなことを許された感覚があった。もう少し、牛乳を探すふりをしたい。あるいは、そのついでに何か別のものを探すふりをしていたい。そんな感覚を許して、なぜか発芽玄米なんかをぼんやり眺めていたのだ。

 

 おれはまことに不器用な人間で、自由な時間を甘受することすら、ひどく億劫になることがある。とくに、仕事なんかで疲れている日なんかはそうだ。家に着いて玄関を開けた瞬間、見慣れた我が家は「さあ!好きなことをして過ごしていいんだよ!」と言った風情で迎えてくれる。けれど、シャワーを浴びるにも、晩ごはんを食べるにも、録画を消化するにも、本とかマンガとかゲームにふけるにも、どうも手を伸ばす気力がわいてこない。楽しいこととか、安らかなことだって、どこかでちょっと面倒くさいし、消耗するのだ。けれど、実際何もしていないから、過ぎた時間だけ気おくれしてくる。ああ、もうおれはダメだあ、なんてね。

 

 そんな状況が待っていることを思い出すと、スーパーでの買い出しという、ごくごく弱い強度の義務を抱えていると、かえって気持ちが安らぐ。「今は牛乳さえ買えれば何しててもいいよ~」という身分保障に守られて、おれは何もしなくても、なんかそこに居てもいいような気がした。

 

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 同じような状況として、ひとりで長距離をゆっくり移動している道中の感じも好きだ。

 

 1日中自転車をこいだり、山をせっせと登っているときとか、青春18きっぷを使って、ローカル線で長距離移動をしているときの、「今は目的地へ向かっていれば、それでいいのだ」という状態は、結構心地よい。

 

 どんな長旅でも、風光明媚な景色を眺められる時間は、ほんのわずか。確かに行程はこなせているけど、同じような風景が続いてつまらんなあと思ったとき、iPodからしばらくぶりの曲を流してみたり、普段は腰を据えて考えられないような物事に思いを馳せてみたり、あるいは流れに身を任せて何も考えなかったり…。そんな時間って、部屋にいるときは案外過ごせないものだ。

 

 何もしないために、かえって苦行じみた遠出のプランを組んでしまう酔狂さを、どうにも手放せそうにない。

 

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 「いまは、あなたと居ればいいんだね」なんて思いを抱かれるの、悪い気分じゃないかも。