ルーティンでととのう

 

 もう数年来にわたって、ちょっとした日誌をつけている。

 

 日誌といっても、その日の出来事と食べたもの、あと誰と会ったかをつらつらと記録するだけ。感想も書きたいときは書くけど、だいたいは出来事だけを列挙している。なんならエクセルでまとめてるくらいだし、整った文章にまとめる意図は全然ない。そういった意味で、日記よりも日誌という表現が近いような代物だ。

 

 とはいえ、出来事を追うだけでも思い出せることは山とある。ご飯屋さんでオーダーした定食がきっかけで、次の秋は陶器市でうつわを探しに行きたいと思ったことや、友達がふるさと納税でもらった海産物の話を思い出したりしたもの。観た映画のことをたぐって、むしろその帰り道に浴びた風の気持ちよさがよみがえったこともある。

 

 日誌をつける時間はときどきで自分が考えていたことや気づいていたことを思い出し、周囲の人が教えてくれたことを忘却の彼方からつなぎとめ、過去のある瞬間に自分がたしかに存在したことを確信させる大切なルーティンになった。もしこの時間がなかったら、自分がどんな人間なのか輪郭を見失っていたかもしれない。

 

 他に習慣的に取り組んでいることって、どんなことがあっただろう。ベランダの植物に水をやること、ご飯の作り置きをすること、ジョギングと筋トレに励むこと、テレビの録画予約をチェックすること…。どれも一応の目的があってやっているけど、どうもそれだけのことに思えない。どちらかというと、決まった行為を定期的に続けることで得られる安らぎを求めている感覚がある。

 

 日々を過ごすなかで、何かを選ぶことを(あるいは選ばないことを)迫られるときや、未知のものに触れなければならないときはほとほと疲弊してしまう。変化は必要であり必然なのだけど、多かれ少なかれエネルギーを使ってしまうのだ。日々のルーティンはそういった瞬間からひとときの解放をもたらしてくれる。

 

 長い時間をかけて確立させた方法で、けっして大きな感動をもたらすわけでもないけれど、生きるなかで自分が求める要素を確実に満たしてくれるひととき。生活の折によりよい方策を考えることはとても大切だけど、積み重ねてきたものによりかかって休憩する時間も大切だよね。進歩するにも体力があってこそだもの。

 

 もっと大きい話をすれば、どんなルーティンを大切にしているかは重要なアイデンティティとも言えそうだ。誰もが自分が大切だと思ったことを、誰に従うでもなく自分の方法でこしこしと積み上げているわけで、友達にも恋人にも…ましてや職場にも社会にも決められたわけではない、自分が心地よく生きるための規範。それがたとえ、風呂上がりにアイスを食べるくらいのささやかなものでも、当人にはどんな法律よりも重要だったりする。なんて思うと、ルーティンを大切にすることは自身を尊重することにもつながるように見えてきた。

 

 さあ、記事も書けたしゲームの時間だ。

 いつものグラスにいつものお茶を注いで準備完了。数年来の付き合いのソファーとニンテンドースイッチもいまや身体の一部のよう。これらが世間一般的にベストなチョイスかはわからないけど、現時点でおれを無心にさせてくれる頼もしいラインナップ。

 

 ではでは、今日の営業は終了します~。