正しくあるとは贅沢なのか

 

 大きな駅ビルや商業施設に行くとき、あなたはとあるテナントに足を踏み入れる。

 清潔で広々とした店内にはさまざまなデザインの服が並べられている。よく見かけるような無地のTシャツやスラックスはもちろん、ビッグシルエットやバンドカラーといった一癖あるけど流行しているものや、ゲームのキャラクターや有名なデザイナーとコラボしたものまで展開している。そして、そのすべてが想定の7割~8割くらいの金額で買うことができる。

 

 こんな光景を想像するとき、あなたはどんなブランドを思い浮かべただろうか。きっと、あなたが想像する以外にも同じようなブランドはあることだろう。いわゆる、ファストファッションとくくられる分野は、もうすっかり多くの人々の消費生活の一部として確立している。多くの人が季節の変わるごとに、あるいは肌着や靴下などが消耗したときに訪れては、「あら!こんなオシャな服があるなんて!しかもこんなお値段で!」と、想定外な出会いを楽しむ。

 

 おれもファストファッションの店に行くのは大好きだ。行くごとに変わるラインナップを眺めるのはわくわくするし、金額の心配をすることが少ないのも気分がラクだ。今だって900円そこそこで買ったTシャツを着ながらこの文章を打っている。

 

 部屋着として使っている1,000円前後のTシャツとハーフパンツに身を包んで、110円で買ったコップでお茶を飲みながら、無料のニュースサイトを読んでいたあるとき、とあるファストファッションのブランドが製造国で労働者に不当な扱いをしていたというニュースが入ってきた。また別の日には国内の店舗で従業員にハラスメントを働いたブランドがあると報道があり、また別の時には差別的なメッセージを内包したCMを打ったり…。

 

 そんな報に触れると残念な気持ちになるし、もし自分が過去にお金を払ったことがあるブランドならいかばかりかの自省をする。そして、事件への抗議の意として不買することも考える。自分が着ている服が誰かが搾取されたうえに作られていたり、お店で対応してくれた店員さんがイヤな思いをしていたり、差別的なメッセージを発する企業の売り上げに自分の払ったお金が入ったり、そういった事象から離れたい。少しでも抗議の意を表したいと思う。

 

 しかし、それがとても難しい行動であることに、はたと気づいてしまう。問題があるブランドと同じ品質と価格帯を実現してくれるブランドが、他に見当たらないことがある。もし他の製品に乗り換えるとしたら、品質か価格帯か、あるいはもっと他の要素か、どこかに妥協点を見つければならない。言い換えれば、自分が今まで享受していたものを正当に受け取るには、どこかでもっと何かしらの労力を払わなければならなかったのだと突き付けられる。

 

 どうしようかなあ。

 名のあるブランドが何か事件を起こしては、のらりくらりと謝罪こそすれど、なんだかんだ生き残っているさまをずーっと見ている感覚がある。そして、そのたびに自分は消費者としてどうするか答えを探していては、なかなか行動に移せていない。不買が出来るときはするくらいで。

 

 一応現時点での答えとして、どこかで見かけた「物事を利用することと批判することは別」という考え方を意識することがある。楽しい時間の友達に注意をすること、好きなアーティストの作品についてあれこれ言うこと、国の制度について恩恵を預かりながら疑問を呈すること、そういったことにつなげて考えるのである。けれど、批判することを行動に移すのは難しいし、その有効性もわからない。会う人会う人にネガキャンするのも、何かの出来事についての抗議を企業に送るのもピンと来ないし、あまり気分がよくなるものでもない。

 

 やはりポジティブな展開としては、誠実に企業活動をしているブランドを日々探してお金を使っていくことになるんだろうか。これは購入時に支払う金額が大きくなるだけでなく、そのブランドに行きつくまでに情報のアンテナを高く張る労力も必要だ。いずれにしても、自分が思うかたちで経済を回していくためにコストを払うことは、なんだかとても贅沢な行いに思える。お財布にも心にも余裕がないとできない、尊い行い。

 

 ***

 

 ここまで書いてみても、問題のない組織とだけ付き合っていく難しさの途方のなさに気が遠くなってしまう。というか、日本で生きているだけで日本政府と付き合っていくわけだけど、その時点でクリアが難しい課題なのだ。ははは。

 

 ふと自分が気にかけている人々を思い出す。もしかしたら、自分が親しくしている人が勤め先の抱える問題に心を痛めながら、生活のために働いているかもしれない。好きなミュージシャンが、創作活動を展開させた先で手を組んだ企業が実際ろくでもなかったようなこともあったと思う。

 

 そのくらい、悪魔は息をひそめてその辺に存在して、無垢な人を盾にして暴れまわっているのだろう。

 

 

友達に口をふさがれた日

 

 ああ、この話題は話しちゃいけないんだな。

 そんなふうに、隠れて肩を落としたいくつかの話。

 

 ここ数年、LGBT当事者としてなんとか前進してほしいと願っている運動がたくさんある。同性婚の法制化であったり、ときどきで見かける差別的取り扱いからの保護、若年層のLGBTのメンタルケアや居場所の確保など、さまざまなトピックのニュースに触れるたびになんらかの改善が実ることを祈り、手段が用意されていれば署名や募金に応じることもある。そんな活動の中心にいる人の本は何冊も読んだし、実際に参加している人から話を聞かせてもらったこともある。誰もが、その時々で一番効果的な方法を仲間と議論し行動に移していて、ひとつひとつを意義のある行いとして敬意を払っているつもりだ。

 

 自分が知ることになった数々の活動は、もうずっと前から脈々と受け継がれてきたもので、けっしてここ数年で盛り上がったわけでない。自分が知ることになったのがたまたま最近であっただけで、長いものだと自分が生まれるよりも前からどこかで闘ってきた人々がいた。名前も知らないような、いや名前を伏せざるを得なかった状態でも声を上げてきた無数の人々の力によって、自分は心穏やかにゲイとして生きていられる。カミングアウトするとしてもあまり迫害されることを恐れていないし、LGBT当事者が集まる場にも安心して参加することができる。今のところ縁がないけれど、同性同士で一緒の場所に住むことも不可能ではないくらいにはなっている。

 

 こういった話題を本当はおおいに話したいのだけど、実際のところ話せる場に居合わせることは少ない。それどころか、タブーとして扱わなければならない相手すらいる。

 

 ある飲み会のさなか、ゲイの友達が突然「こんなに目立たないで、頼むから静かにしててくれないかな」と言い出した。どうやらふと開いたスマホで目についたLGBT理解法にかんするニュースを眺めているうち、当事者団体の活動について思うところがあったらしい。どうしてこんなに権利権利と騒ぎ立てるんだ。自分は不便なんて感じてないから、居心地が悪くなるようなことをしないでくれ…。そんなふうなことをとめどなく語り出した。

 

 おいおいちょっと待ってくれよ。なんの活動もしなかったら、おれたちはもっとひどい事態に巻き込まれていたんだ。それこそ、こんな街の居酒屋でおおっぴらに同性パートナーの話なんか出来ないような空気にだってなりえたんだぜ?なんて言いたくなる。けれど、かれを諭すにはお酒を飲み過ぎていたし、しばらくは関係を維持しないと面倒になる用事も先に待っていた。なにより、かれの語り口から切実な困り感がにじみ出ていて、かれが日々抱える苦悩が先の言葉たちを言わせたのだろうと感じさせるものだった。

 

 ここで何も言えなかったことが、今も心のどこかに引っかかっている。

 

 またあるとき、おれがなんとなしに政治にかんする話を口走ったら、「政治と宗教の話はダメ!」と友達に制された。「ありゃ、会話の流れに即してなかったかな」などと反省して別の話にすり替えたけれど、だったら「今その話?」なんて止め方もあっただろう。そういう理由でなく、なんとなく世に出回っているタブーだからと止められてしまうのは割り切りがつかない。むしろ、政治も宗教も普段からみんなで話題にしていれば、いまこの国に横たわっている問題のいくらかは存在しなかったはずなのに。けれど、目の前の友達はそんな話をすることを望んでないのだ。

 

 そしてこのときもまた、おれは口をふさがれたままだ。

 

 結局おれは、関係がこじれることになってでも主張したい気持ちにフタをし、沈黙を選んでしまった。あの場は戦うべき場ではなくて、静かに自分の意見を守ることが堅実だったのだ。そう自分に言い聞かせつつ、それでも異を唱えるべきだったのではないかとの後悔が尾を引いている。

 

 いま身を置いている世界はだいたい平穏に見えることが多くて、でも政治的にも社会的にもめちゃくちゃな部分だらけで、その原因の大きな部分に人々の無関心がある。憂鬱なことからは目を反らしたいし、疲れる話はなるべくしたくない。けれども、それが積み重なって目を覆うような出来事がたくさん起こっているし、それはひとりきりで考えるべきことではないのだ。誰かと一緒に目を向けて話題にし、出来る行動があれば連帯して形にしていきたい。そんなことは、誰もからも煙たがられてしまうのだろうか。

 

 きっとこれからおれは、付き合いをもつ相手が社会的な問題を話せるかどうか、無意識のうちにジャッジするようになるのだろう。おれの口をふさぐような人とはあんまり一緒にいたくないし、自由にしゃべらせてくれる人との時間を望むようになる。

 

 本当のことを言えなくて苦しむなんて状態を味わうほど、人生余ってないんでね。

 

 

イニシェリン島の精霊

 

 気が弱くてお人よし、ちょっとお調子者な面を持ちつつ周囲の人を愛して暮らす人がいたとする。きっと、自分の周囲にいたら好意的な印象を持つだろうし、長い付き合いになることを願ったりもするかもしれない。もっと言えば、自分自身が憧れる人間性のひとつのようにも思う。

 

 これは、2022年に公開された映画「イニシェリン島の精霊」の主人公、パードリックについて自分が思う人物像である。アイルランドの小さな孤島が舞台となっているこの作品で、パードリックは全員が顔見知りのこの島で暮らす人物として登場する。家畜の世話をしながら妹と暮らし、一日の仕事を終えたあとに親友のパルムと飲むビールを楽しみに日々を暮らす。かれの生活はそれだけで満たされていて、そんな生活がずっと続くと思っていた。

 

 しかし、ある日パードリックはパルムから突然絶縁を告げられる。パルムは毎日パブでパードリックの話に付き合うことが、じつは苦痛であったことを打ち明ける。日々に変化がないパードリックの話は単調でつまらなかったのだ。そして、残りの人生のすべてを作曲に費やしたいとパードリックに告げるのであった。

 

 パルムの唐突な申し出について、パードリックは動揺し受け入れることが出来なかった。何度もパルムの家のドアを叩き、パブでパルムを待ち続けたこともあった。そんなパードリックの行動にパルムはより態度を硬化させるばかり。困り果てたパードリックは妹であるシボーンに相談するも、シボーンもまた退屈な島での暮らしに耐えかねて、アイルランド本土へ移り住むことを決心していたのであった。

 

 ざっと話すとこういったストーリーであった。

 作中で描かれるパードリックはたしかに話題に乏しい人物で、パルムに家畜の糞の話ばかりして辟易されるシーンすらあった。一方でパルムはライフワークとして作曲に励んだり、パブで仲間と演奏することを楽しむなど、音楽につよく関心を寄せる人物として描かれる。シボーンについても、家にある大量の本に没頭する日々を過ごしていた。後者のふたりにとって、島での生活や人間関係だけに身を投じるには耐えられなくて、なにか別の刺激を求め続けていたのだろう。

 

 人間関係において、「どうしてこの人と一緒にいるのだろう」と疑問を抱いたときのことを思い出してみる。会話が続かなくなったり、おもしろいと思えることが一致しなかったり、ひとりで過ごした方が意義を感じられる時間が過ごせると気づいたり…。少なくとも、相手も自分もなにか悪いことをしているでもなく、別の理由で他者が疎ましくなってしまうこともあるのだ。

 

 では、パルムやシボーンはパードリックを疎ましく思っていたのだろうか。

 映画の印象的なシーンのひとつに、傷だらけになってよろよろと歩くパードリックにパルムがそっと肩を貸し、帰路をともにするシーンがあった。このシーンの直前で、パードリックは島の保安官がシボーンの悪口を言っている場面に遭遇し、思わず保安官へ抗議したところ暴行を加えられたのだ。このシーンは親しい人が侮辱されたときに毅然と抗議し報復を受けたパードリックの姿を、パルムは放っておけなかったように読み取れる。パルムの方から絶縁を宣言したあとにもかかわらずだ。

 

 思うに、パードリックから離れることにしたふたりも、パードリックの人間性が疎ましくなったのではないのだろう。かれは自分なりの優しさを胸に周囲の人々を慕っていたが、それだけでは関係を維持する理由にはならない。退屈きわまる島の暮らしは、さらに退屈さを強調させるかれの存在を許容できなかったのだ。

 

 “気が弱くてお人よし、ちょっとお調子者な面を持ちつつ周囲の人を愛して暮らす人”。そんなパードリックのような人物について、いい人だけど退屈なんだよなってネガティブな思いを持ったことを、ついぞ思い出してしまう。あまつさえ、不親切で不誠実な面が目立つのに、他に類を見ないエキセントリックなセンスゆえに惹かれた人だっていたくらいだ。

 

 自分はどうだろう。おれは誰かに誠実にありながら、退屈を振り払う存在になりうるのだろうか。

 そばに居る人にたいして誠実で親切なふるまいをすることは、まだ辛うじてできるように思う。しかし、相手が予想もできないような行動でポジティブな驚きをもたらしたり、日々の平凡な日常から脱するような体験を提供することは、あまりに深遠かつ無謀な課題に思える。意図的に仕組もうとすること自体が傲慢ですらある。

 

 人は退屈しのぎに出会い、退屈しのぎに別れる。

 もしそんな流れが無意識下にプログラムされているとしたら…とても恐ろしく感じる。人間関係は移ろうものだなんて悟ったようなことは言えなくて、好きな人とはずっとかかわっていたいのだ。それが叶わぬ望みならば、せめてもの悪あがきとして用意できる退屈しのぎを全部やり切ってから別れてみたい。そんな行動が周囲の人々にできる愛情表現と信じながら。

 

 

同じになれなかったおれたちは

 

 この人とはぴったり考えが同じだな、なんて感覚っていったいどんな感じなんだろう。

 

 一緒にいれば同じものに関心が向いて、同じことに笑ったり驚いたりして、次の休みにやりたいこともその先の大きな休みにやりたいことも一緒。そんな人と出会えたら、この人こそが自分のパートナーだ、信頼すべき人だと思えたのかもしれない。

 

 自分のあらゆる行動について指針めいたものがあるとして、そりゃその指針が近い他者がいたらいくらかラクだろうな。自分の行動が否定されるのは空恐ろしいことで、逆に自分がとりがちな行動を誰かもしていたら、なんだか自分の行動に正当性を与えられたような気分になって安心できるものだ。テレビのお笑い番組を観ている時、誰かが一緒に笑ってくれるだけで自分の感性が信頼できる。そんな瞬間を夢想したことは何度となくある。

 

 そりゃ、感性に正誤なんて無いのも承知している。

 何事に触れるときも自分の感じ方なんて曲げようがなくて、あるとすれば他者や社会とのかかわりのなかでどれだけ自分の感じ方を開示するか調節するくらい。誰に共有するでなく、自分ひとりで感じたことを大切に守っている物事なんていくらでもある。

 

 ああでもそうか、そんな孤独を知っているからこそ、誰かと同じ考えを持てる状態を求めるんだわな。夜を徹して好きな本をむさぼるように読んだ日も、必死になってボールの壁打ちにひたすら取り組んだ日も、その最中は夢中だったけれど気がついてみればひとりぼっち。感動もしんどさも、それを知るのは自分だけだ。どうせなら誰かとこんな気持ちを分かち合えたら、なんて欲が出てくる。そうして、ふと興味のある対象が同時にふたつぶらさがっていたら、誰かと共有できる方を選ぶようにもなるのだろう。

 

 自分もまた、そんな選択をすることがあった。誰かと共有できる物事に取り組んだ結果、成果だけでなくそれを共有する喜びも得られて、さらに深みにはまったこともある。しかし誰かと何かをがんばる一方で、自分ひとりで大切にしていたものを置き去りすることは、どうしてもできなかったのだ。誰かと一緒に行く観光旅行を楽しみつつ、ひとりで行く登山や自転車旅の時間やお金もなんとか確保したいし、誰かと一緒に映画を観に行っても、それとは別にひとりで映画を観に行くのをやめたりはしたくない。誰とも価値を共有できない孤独を内包しようとも、それを補ってあまりある魅力を見過ごすことなど、自分には無理な相談だったのだ。

 

 自分が好きなものを追う孤独を大切にするように、自分が親しく思う誰かもまた、どこかでひとり孤独を過ごしている。仮に他者を相手にすることばかりに取り組んでいるとしても、相手にしている人が多すぎて全貌は当人しか分からないとしたら、それだって孤独と言えるだろう。

 

 すべてを把握し合い、お互いのことならなんでも知っていると宣言できる関係をおれは持てなかったし、必要としてもないのかもしれない。そういった意味では、自分と他者のあいだにはびしっと線が引かれているのだろう。けれども、それは他者を排除するためのものではない。あなたと自分は違うところにいるけれど、それを踏まえたうえで親しくしたいと宣言したいのだ。

 

 他者と自分のあいだに線は確実に引くけれど、その線をまたいだりもどったりする。そんな立ち回りがもしできるのなら、誰かの領分にお邪魔した折には思いっきりその視界を目に焼き付けたい。でも長居はしないよ。それがおれなりの親しみだからね。

 

 同じさびしさを知る限り、おれたちはひとりじゃない。

 

 

本音

 

 周囲にいる人が何かを抱え込んでいるとき、どんな行動を取ればその人の助けになるのだろうか。

 

 なんだか道徳の教科書に載ってそうな問いだわねえ。

 道徳の教科書って学校を卒業してから読んでないのだけど、ひとつひとつの問いにたいする模範解答は用意されてなかったよね。教室でそれぞれに意見を出し合って話し合いましょう、みたいな展開になっていたと思う。

 

 おそらく多くの意見は「悩みを聞いてあげる」みたいなものになっていくんだと思う。抱え込んでいる状態というのは、言いたいことが言えてない状態にあるということ。だから、悩みを話せる場を作ることが当人の救いになるという想像になるのだろう。あるいは、どこかの本やテレビで見かけた「悩みを話すことで解決につながった」といったストーリーをなぞっているのかもしれない。

 

 まあどうだろう。他にもさまざまな意見が出ていって、議論が進むにつれ教室内にある多数の意見に収束していくのだろう。そして、模範解答はわからないけどみんなで選んだ答えだから正しいのだろうと考えたりする光景が浮かぶ。

 

 ここで、教室の片隅に「自分だったら別の行動を取る」という意見を発言できない人がいたとする。自分の考えをみんな分かってくれるだろうか。もしかしたらしらけてしまうかもしれない。きっと自分の考えは、この場が求めているものではないのだろう。そんなふうに逡巡して、少なくともその場では意見を言うことを控える選択をしてしまう。そして、授業が終わる頃にはすべて忘れちゃってたりね。

 

 えてして、本音なるものは取り扱いがむずかしい。

 

 ***

 

 おれは人に悩みを聞いてもらうことが得意ではない。

 

 そんなね、悩みを聞いてもらうのにウマヘタがあってたまるかって話だし、別に漫才師よろしく流れるような話術でペラペラと悩みが話せることが理想とも思わない。ましてや、相手の涙を誘うようなせつせつとした悩みの告白をしたいわけでもない。どんなに親密に思っている人に悩みを打ち明けたとて、それで身が軽くなった経験があまりないのだ。

 

 はじめは、自分が共感より解決を求めがちな性格なので、何かの懸念の根本にあるものが解消しない限り、荷が軽くのを感じにくいからかと思っていた。けれど、問題の渦中にあって解決が望めない状態でも、ふと前向きになれた瞬間を迎えたことだってあるのだ。それがどんな瞬間か思い出すならば、自分の中から湧いてきた言葉によって何かを納得できたときだった。

 

 そりゃまあ、誰かに悩みを聞いてもらっているときに自分が語る言葉だって、れっきとした自分の考えだ。だけども、そこには(ときの会話で求められている範囲での)というカッコがつく。答えが見つかってもつい相手の反応を考えてしまって発言を引っ込めたり、相手が求めていそうな答えを差し出しては「あの一言は自分の真意ではなかったな」と反芻することになる。まあ、それも悩みを検討する一過程ではあるのだけど、どうにもノイズのように感じるほうが勝ってしまう。

 

 自分の中から出てくる言葉とは、ひとりでうんうんと同じことを考え続けて、整理しようと紙にまとめてみたり、あるいは気分転換にジョギングに出たりゲームをしたり、そんな行いのうちに降りてくるひらめきによるものだ。あとから見てみれば、そのひらめきの中身はひどく平凡なものだったり、過去に誰かから言われたことだったりもする。しかし、考えつく限りにさまざまな方向からスポットライトを当てて、条理も不条理も包括して納得できるような答えは、自分で出さないと気が済まないらしいのだ。

 

 ともすると、おれが欲しているのは会話において発生する不確定な要素も含めて、相手と同じ波長で物事を考えられる状況かもしれない。そういう意味では、おれが苦手とするのは悩みを話すことというより、誰かと波長を共有して物事を考えることと言えそうだ。実際、ひとりで考えるときはあっちこっちへと思考が飛躍しているわけだし、そうしないと落ち着かないくらい思いつめがちなクセもあるもんで。

 

 ***

 

 何かを抱え込んでいる人に出くわしたときにどうするか。答えを今考えるならば、当人が一番すっきりと過ごせる環境を作ると答えるだろう。

 

 もし抱えていることを聞くのが助けになるなら、きっと話を聞くだろう。そのタイミングはすぐそのときかもしれないし、ちょっと落ち着いた頃に「考えはまとまったかい」と答えを迎えに行くこともあるかもしれない。抱えていることから少しでも解放されることを望むなら当人の気が紛れることをするだろうし、逆にとことん考えたいなら膝をつきあわせて議論することもあるかもしれない。

 

 いずれにしても、胸のうちにあるものの扱い方は人によって違いすぎて、そう画一的に扱うべきものではなかったらしい。まずは悩みよりも当人がどんな場を望むか、じっと読み解きたいのだ。

 

 そのくらい、本音と遭遇するのは難しい。

 

 

既読スルーの向こうに

 

 用件が済んで少し雑談めいたことを送って、やがてやり取りは既読がついておしまいになる。歯切れの悪いメッセージのやりとり。送ったメッセージにリアクションがないことも、あるいは誰かからのメッセージを返さないままになることも、自分にとっては日常になってしまった。

 

 なってしまった。

 思えば対面以外でのコミュニケーションのうち、一番初めに使えるようになったのは家の固定電話だった。友達の家に電話をかけて、相手の親に取り次いでもらって友達本人が出てきて、ようやく用件を伝えるなり雑談にふけるなりが始まる。そんな長電話は言葉での会話である以上、相手からの返事は必ずあって、終わるタイミングも明確だった。ふと沈黙が訪れたり、急に電話が切れてしまうようなことがあるにしても、それはそれで意味があることだしね。

 

 のちにケータイでのメールが流行り始めた頃は、おそらく電話での習慣が下地にあったせいなのか、わりとみんなマメに返事を送っていたように思う。だらだらと続くメールのやり取りを、時々でセンター問い合わせをはさみながら楽しんで、積み重なるRe:Re:Re:…の数に達成感のような感慨を得ていた。そして返事はなかなか途切れない。

 

 いま思えば、そういった冗長なやり取りに苦痛をおぼえた人も多かったのかな。

 

 やがて普段使いのツールはメールからLINEに移ることになった。やり取りはチャット画面で一目瞭然となり、テキスト以外にも多彩なスタンプで自分が伝えたいことを表現できるようになった。テクノロジーの進歩ってすばらしい。メールで感じていたやりづらさが解消されて、コミュニケーションにたいする負担感がまた一段と軽くなったように思えたものだ。

 

 けれども、LINEを当たり前に使う頃には、終わりのないメッセージの送り合いをすることは少なくなっていた。

 

 電話、メール、LINEという連絡ツールの進歩の歴史をたどるような書き方をしてみたけれど、どうやらそんな歴史が積み重なるとともに、自分も周囲の人もまた歳を重ねていることも関係あるのだろう。やるべきこともやりたいことも増えて、目の前にいない誰かに構うことが出来る時間は減ってしまった。気持ちとしては誰かに構ってもらうことを求めているくせに、仕事をこなし、ご飯を食べ、シャワーを浴び、テレビをボーッと眺めているうちに、舞い込んできたメッセージに返事が出来ず若干のむなしさをおぼえるのが日常の風景になった。

 

 返事ができないってのは、なにも忘れているばかりではないんだよね。

 ちょっと調べてからよりよい返事をしたいとか、聞かれたことに誤解もウソもないように返事をしなきゃとか、言いたいことがあるけどちゃんと言葉を選ばなきゃとか、ここに並べたような要素をすっ飛ばして適当に返事をした後悔を思い出すとか、メッセージひとつ返すことへの労力ってけっして小さいものではないのだ。少なくとも自分は、以前よりも気軽に返事を送りづらいと感じることが増えたものだ。テキストコミュニケーションって本当に難しい。

 

 既読スルーにまつわるワンシーンを想像する。自分があるメッセージを送ったとして、相手は送ったメッセージをキャッチしつつも、何かやることに追われて通知をタップする気力すらない。そして悪意のないまま、返事どころかメッセージの存在すら忘れてしまう。自分は来ない返事を待つうちに、返事がないこと自体がひとつの答えととらえ、静かに相手に抱いた期待を諦めてしまうのだろう。

 

 落ちる体力と増えるタスクを前に、どうしてわれわれは引き裂かれてしまうのだろうか。

 

 ただまあ、自分が諦念に駆られていたのも少し過去になりつつあって、だんだんとひょっこり連絡がついて再会できた経験も少しずつ積みあがってきた。何か事情があって連絡は出来なかったけれどネガティブな感情はなくて、むしろ会う方法を失って諦めてしまっていたと知ったこともある。電話もメールもLINEにしても、すべてはツールでしかないのだ。ツールの使い方と相手が抱いている気持ちはそうわかりやすく相関するものではなくて、気持ちがないから連絡がないという判断はいささか早計だったと気づくことはままある。

 

 いま誰かとコミュニケーションを取りたくなるようなときは、相手はどんな方法が得意で、自分はどこまで対応できるか考えるようになった。メッセージの返事が来なければ時間を置いてもう一度送ってみたり、相手が電話で話すのが得意なら…あるいはパッと会うのが得意なら、どちらにしても合わせられる範囲で応じたりもする。そんなことに心を砕くと、相手もなんだかんだで楽し気な反応を返してくれたりするものだ。

 

 でもまあ、そんなこんなもいつか人付き合いへの欲が尽きるまでの延命策にすぎないな。やがてもっと他者を求めなくなって、「ふるさとは、遠くにありて思うもの」なんて言葉のように、親しくしていた他者ですら遠くで思うだけで満たされるようになるのかもしれない。日々誰かと濃密なコミュニケーションがとれた頃を懐かしんでも、もうあの頃に戻れやしない。他者を追い求めてメッセージの山を築いた青春を遠目に眺めて、おれは誰の既読もつかない言葉たちをここにこうして残している。

 

 ***

 

君に話した言葉はどれだけ残っているの?

ぼくの心のいちばん奥でから回りしつづける

 

あのころの未来に

ぼくらは立っているのかなぁ…

 

全てが思うほど

うまくはいかないみたいだ

 

あれからぼくたちは

何かを信じてこれたかなぁ…

 

夜空のむこうには

もう明日が待っている

 

夜空ノムコウ / SMAP

 

 

定時退勤

 

 窓の外に見える建物の影が長く伸び、最後に淹れたコーヒーを飲み切る頃。少し遠くの席から「お先に失礼しま~す」という声が届いてくる。今日も無事、勤務時間の終わりを迎えたようだ。

 

 あいにくおれは仕事の進め方が達者ではなく、まだ帰るには区切りがよくない。ここで止めると明日は重い腰を上げるところから再開しなければならないし、そのくせすぐに終わっちゃって次の仕事に気持ちよく着手できない光景が浮かぶ。あと20分だし勢いで終わらせちゃおう。なんて考えながら少し居残って帰る日が多い。毎日きっちり定時退勤といかないけれど、2時間も3時間も残業をする日はほとんどない。というか、しないようになってしまった。

 

 いまから数年前…、ちょうどすっぽり20代の頃だろうか。おれは残業をして帰りが遅くなることにまったく抵抗がなかった。当時は自分の能力に自信が無くて、どこかから非難されないよう時間をかけて仕事をする傾向にあった。幾重にもチェックを重ね、ついでに見栄えなんかもよくしちゃったりして。そんな工程を重ねることに安心感を得ていたのであった。こんだけ時間をかけた…つまりベストを尽くしたのだから、何かあっても自分の力が及ばなかったのだろうって言いやすくするためと言うか。

 

 いまは残業するとしたら単純に仕事量が多い時だけだ。いつしか同じ仕事を続けるうちにひとかどの自信がついたようにも思うし、とやかく言われそうな部分を事前に回避する仕事のしかたも分かってきた。けれど、最大の理由は退勤後に使える元気な時間が少しずつ減っていることに気づいたからだ。

 

 ちょっと前までは、職場に残る人がまばらになる頃に退勤しても、疲れ切っていた日なんてほとんどなかった。残業帰りに本屋さんで閉店まで立ち読みをしたり、日付が変わろうかという頃にジムに行ったり…、おそらく布団のなかで眠りにつく瞬間まで一日を満喫できていたのだ。そのうえ、そんな時間の使い方がずっと続くように思っていた。

 

 ところがまあ自分はしっかり歳を重ねているようで、一日のうちで元気度に波が出るようになった。夜まで細かい仕事を続けているとボーッとしてしまい、単純な作業をするのが精いっぱいになる。それでいて部屋に帰っても、長時間のドラマを観たり新しい本を読み解くのすら難しい。というか、そういったものに手を伸ばす気力が湧いてこなくて、ついつい何度もみた動画やSNSをボーッと眺めてしまうことが多くなった。

 

 なんてことを自覚したら、すっかり貴重になってしまった元気な時間を仕事に割くのが惜しくなってきた。体力があるうちにそそくさと帰宅して、仕事以外に関心があることにもきちんと取り組みたい。感性が精彩を放っている状態で何か新しいものにふれたり、ジョギングやコーヒーを楽しみながらいろんなことに考えをめぐらせたいのだ。真昼間に仕事の書類がスラスラと頭に入ってくるとき、この感覚で小説読みたい!映画観たい!と歯ぎしりをするくらい。

 

 一日の過ごし方を考えるとき、羊羹のようにどこを切っても均等に甘く感じられるような感覚は、どうやら過去のものになってしまったらしい。いつの間にやらスイカの端っこのような味気ない部分が、日々の中に存在するようになった。毎日変わるその日その日の味わいは、できれば仕事以外でもかみしめたい。さあさあ情けは無用です。今日も元気にお先します!