人の間が人間で

愛を貰ったり 愛をあげたりを繰り返して
いつ頃僕らは大人になるのかなぁ
愛を貰ったり 愛をあげたりがすべてなんだと
気付く頃にもう誰もこの世にいない

一人ぼっちの世界 / メガマサヒデ

 

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友達とは、恋人とは、という問いを、人々は一体何回やってきたんだろう。

 

おっとっと、主語がデカいぜ。そんなことを考えない人だってごまんといるし、そんな問いをしなくても満たされている人はたくさんいるぜボーイ。もっとも、人間関係に満たされていても、周囲の存在についてうんうん対峙する人もいれば、離人症的な性分なのに特に意に介さない人もいる。けどまあ、少なくとも俺はもう何回何十回何百回と考えてきた気がする。

 

その時々の自分自身なり、周りに居る人なりも、結局みんな好き勝手な答えを出しているし、それもまた時間とかが流れると化けてしまったりしている。別に軽薄とは思わない。一個の考えが何かの要因で否定されて、新しい考えにアップデートされただけだ。知恵は経験によって磨かれる。無邪気さが減りしたたかになる。なにも悲しむことはない。

 

「友達は自分の鏡」なんて言葉がある。これは割と気に入っている。自分がどんな性格なのかを知りたくば、どんな性格の友達が居るか見てみればよいとか。いま自分が深く付き合っている友達を見ていると、なるほどいいところも汚いところも理解できるところが多い。そして長い付き合いの友達は、自分と同じような性格の変化をたどっている気がするぞ。うれしいなあ。

 

「どこから来たか」ではなく、「どこへ行くか」が最も重要で価値あることだ。―これはニーチェの言葉らしい。思えば、長い付き合いになって、同じような変化をしている友達も、元の環境は自分と似ても似つかないことだらけ。きっと、20代で出会ってなければ友達になれなかったかも、とすら思う。けれど、どこかで「こういう人になりたいな」って発想がたまたま自分と似ていて、その結果として共鳴することが出来て友達でいられてるのかなって思ってる。まあ逆に言えば、どこかで価値観がすれ違ったら、一緒に居ても居心地が悪くなって、いつしか離ればなれになってしまうのかもな。過去の友達について「あの頃の彼とはいくらでも話が出来たのだけど」なんて悲しいことを言ってしまうかも。すでにそういう人居るけどね。

 

ん、そういや、いよいよ自分がひとりぼっちになったとしたら、もう自分がどんな人かも見失ってしまうんだろうか?だって鏡がないんだもん。こっわ。

 

一方で、恋人とかそこから家族になる存在は「破れ鍋に綴じ蓋」だと思っていて、本当に相性というか、「なんかようわからんけど上手くハマるんや」としか言いようがないのではと思う。それは一緒に居た時間の長さで後天的に感じるものだとしたら、まあまずは長く一緒に居られる人だよなあと思うし、実際なんらかの理由でたくさん一緒に居られたうえでの愛着ってとても大きいと思う。たくさん一緒に居られるなんらかの理由はいま探してるからちょっと分からない。

 

そういう意味で、「今は気分がポジティブだからめっちゃ恋愛しよう」とか、「いつでもお互いが素敵に見えるカップルになるぞ」は、少なくとも自分にとっておっかない発想に入る。だって自分落ち込みやすいんだもの。金貸し商売の例えに、「晴れた時に傘を売りつけて(融資させたがる)、雨が降った時に傘を剥ぎ取る(資金を引き上げたがる)」というのがあるんだけど、それと同じような予後になってしまうんじゃないかな。自分が晴れ晴れとしたイイ男で居られたとしても、そんなのせいぜい出会ってからプレイ時間10時間くらいだ。みるみるうちにどっかから雨雲を連れてきて湿っぽい人間になる。そんな時、恋人は傘になってくれるのか?まあなんなかったとしても、今度は恋人の方がじめじめすることもあるやん。「この人のもとには雨が降らなさそうだ」なんて思って傘になってもらっては困るし、逆に言えば自分は「この人の傘になりたい」って思わないと恋人にならないことにしている。過去に、「今思うと、あの時自分は傘にならずに逃げたな」って後悔もあるし。

 

っていうか、価値観に相違が見つかって離ればなれになるにしても、友達との別れよりとは違ってダメージがデカいからなるべく回避したいじゃん。さすがに恋人との離ればなれの局面で、「あの頃の彼とはいくらでも話が出来たのだけど」なんて悲しいこと言いたくない。

 

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自分がなんで恋人がいたらいいなとか、その先で家族になってくれる人がいたらいいなって思うかと言うと、つまるところ一人になりたくないのだ。こればっかりは、どうもカッコいい表現が浮かばない。恥も外聞もあるか。どうせこの文章をまともに読んでる人なんかほとんど居ねえんだ。

 

自分が家族に育てられていた頃、家族とは楽しい事も悲しい事も共有したいと思っていたし、または家族に話すのが照れくさいから楽しかったことを秘密にしたり、あるいは一緒に悲しませるのが忍びないからツラい事もまた秘密にしたり、でも物事が起こるとどこかで家族のことを思い浮かべて何かしらのジャッジをして存在を意識する。そんなことを、自分の選んだ誰かと死ぬまでやっていきたいんだ。

 

けれども、歳を重ねるとともに個人主義を極める人が増えている気がする。何をするにも自分の足で立って、自分の行きたい場所へ行きたいときに行くんだって考えて実行している。すげーや本当に。もちろん自分も終生自分の足で立っていたいし(ツラいときは四つん這いになるかもしれないけど)、一緒になる人も自立している人であって欲しい。お互い一人でも生きてけるぜ!マインドで居たいし、あいにく扶養親族は終生つくるつもりがない。だけど、精神的にはどうだ?誰かと精神的な苦悩くらい控除したくないか?そんでもって楽しい事は共有財産にしたくないか?俺はそうでありたいよ。ソロプレイでも生きていけるけど、あえてチームを組みたいじゃんか。

 

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自分が10代だった頃、自分なんか死んでしまって、目の球だけになって好きな人のことをただ見ていたなって思っていた時期があった。でもそれは不正解だった。ひどく。

 

自分は、目の前の人が自分の言葉で動いて、自分もまた誰かの言葉に動かされ、流れる時間の中で変化を共有したいのだ。会いたい人も、見たい景色も、自分で時間を作って、その時を待ち望み、足を運んだとき、初めて見る価値が生まれるんだ、、、いまの価値観では。

 

明日は何を見て、何に影響されるんだろう。

 

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夜歩く君と 工場の脇の道を
闇を照らすものがまるで無くて
海の底にいるみたいだった

君の目だけ銀色で その銀色が言う

もしも私が死んで 幽霊になったら
もう こんな夜の闇は 怖くないのかしら?

 

夜歩く / 筋肉少女帯