ぶらり独裁者

 

 理想的な政治体制とは、誰の不満も生まない為政者による独裁だという話を聞いたことがある。

 多くの意見を調整するコストは膨大なもの。議論のために費やされる時間や、紛れ込む無駄な支出、さらには正しい少数の意見が間違った多数の意見によって塗りつぶされてしまうこともあり、合議制にも限界と言わざるを得ない場面がしばしば見受けられる。

 

 しかし、少なくとも国レベルで誰の不満も生まない為政者という存在は、おおよそ空想上でしかありえないだろう。日々ニュースを観ていても、政府が担う役割はおおよそ個人ですべて把握できるものではない。仮にすべての分野で的確な指示が出せたとしても、それを人々が支持する権威が付随するとも考えにくい。もう王権神授説なんて過去のもの。「えらい人がそれらしいことを言っているけど、現場を知ってる自分のが正しいもんね」なんて面従腹背されておしまいだ。

 何より、歴史上の独裁政権による悲劇には枚挙のいとまがなく、いくら注釈をつけたとしても独裁的な国家体制への志向は今日では忌避される。「下手な民主主義より独裁制の方がいい」なんて、過疎ってるブログでこっそり主張するくらいしかできない。

 

 なんて言いながらも、せせこましく注釈をつけながら独裁制を支持する話をしたい。というのも国家とか政治とかそういう規模ではなく、個人の手が届く範囲での独裁制というものは、なかなか心地よい環境を作れるものではないだろうか。

 

 いっとき通っていたショットバーなんて、身近な独裁制のひとつだったと思う。感じの良いマスターがいて、ときどき雑談の相手をしてくれたかと思ったら、そっと放っておいてくれたこともあるし、他のお客さんと話すきっかけを作ってくれたりもした。

 この場所でどう過ごすかは、マスターの立ち振る舞いに任せておけばいい。自分も含め誰もがマスターにならこのお店のなかでのことを委ねてみようと思えるし、マスターもまた必要なことはだいたい感じ取れる空間だから気配りができる。

 

 自分もまた、ひとりで切り盛りするような集まりを主宰することがいくつかあった。バンドを集めてライブイベントを催したり、知り合いに声をかけてZINEを作ったり。どの場でも努めて参加してくれた人の意見は聞くようにしたけど、実際に何かを決めるのはとりまとめ役の自分である。おれは、その場で一番必要な答え(人から求められている答えとは限らない)を選んで、みんなに動いてもらうわけになる。もし自分が選んだことで迷惑をかけてしまったら謝りたおすわけだけど、だいたいその前にみんなが指摘してくれて軌道修正できる。話のわかる独裁者なので。

 

 こういったやり方を好むのは、大学で所属した部活の運営方法があまり好きになれなかったことが原因のように思う。当時は4人の幹部とその周辺の部員で運営していて、自分が運営側のひとりになったこともある。日々の話し合いのうち、運営陣もみんな人間なので意見の相違ができる。そしてどうにかすり合わせようとして玉虫色の結論になったうえ、部員たちも「まあ運営陣が決めたことだし…」と意見を言いづらくなって、どんどん風通しが悪いまま停滞した組織になってしまった。もちろん、合議制での運営でうまく回していく方法もいくらでもあったんだろうけど、それ以来自分は小回りの利く組織を自由に動かしたり、あるいはその中で動くのを好むようになった。

 

 いまでもおれは知り合いが集まる場を作って、そこそこの人数でわいわいすることが好きだ。そのためには多少の手間は引き受けるし、一度盛り上がった場は手を変え品を変え継続していきたいとも思う。しかし、会が軌道に乗るにつれて、一緒に運営したいと言ってくれる人が現れてくる。こうした現象を以前は喜んでいたけれど、いまとなっては潮時だなと感じてしまうようになった。おれはひとりで場を回して、適当なところで店じまいをするようなやり方しか知らない。誰かと組んで組織としての強靭化を図るのが筋なんだろうけど、それによって小回りを捨てることに耐えられないのだ。

 

 先細りして消えていく場所ばかりを作って、独裁者はやがてひとりになるのだろうか。なあに、そしたらひとりで楽しめることにシフトしていくのさ。てなもんだから、解散するまではせいぜいよろしくね。

 

 

ここにゲイがいるぞ

 

「ここにゲイがいるぞ!」

 

 自分が子どもの頃の教室では、男子同士がふざけてじゃれ合っているとこんな揶揄が飛んできたものだ。じゃれ合っている方も、同性同士で身体的に密着することで笑いが取れると思っている。当時はテレビをつけても同性愛者と言えば嘲笑の的で、いわゆるオカマキャラと呼ばれる笑いが流行していた。本当にみんな、そこかしこでメディアのマネをして生きているんだね。時代が流れて、同性同士の恋愛(といっても男性同士ばかりだけど)がフューチャーされたドラマがごく当たり前に高視聴率を取るようになった昨今、いまどきの学校では多少なりとも様相が変わっているのだろうか。

 

 いまさらではあるのだけど、自分はシス男性の同性愛者である。これまであれこれ語ってきた恋愛の話は親密な男性同士のことを考えながら書いてきた。手をつなぐとかセックスするとかいった行為についてもまたしかり。だって、それが自分にとっては自然なんだもん。そして、このブログとリンクしているTwitter(現: X )では、いわゆる一般的な異性愛以外の性愛を志向している人々との交流を楽しんでいる。わざわざカミングアウトしなくても、自分が男性といちゃいちゃした話をブログに書いたりツイート(現:ポスト)しても特段騒がれることもない安全な場所だ。

 

 一方、初めから対面で知り合った旧知の人々に対してのカミングアウトは、そこまで積極的にしているわけではない。自分の部屋に呼べる人くらいだろうか。ごく親しい人に自分の考えていることを隠さず話すための過程として、いわば重要な自己開示として位置付けている。一応本人にショックを与えかねないし、一緒に秘密をひとつ背負ってもらうことになるので、関係性が構築されていることはマスト。けどまあ、カミングアウトという親密さ登竜門を越えてしまえば、相手も自分もなんだか安心して付き合うことができる。一定の安全性と信頼が保たれた関係だと認識する感じだろうか。たとえば、いざ部屋に来てもらったときにBLとかを隠さなくてもいいとかね。

 

 ただ、そんな自分でも一度だけ、明確に社会的な意図をもってカミングアウトをしたことがある。

 それは職場でLGBT研修が行われると聞いたときのこと。所属内での小規模な研修で、講師も上長が務めるといったもの。まあむやみに騒ぐほどでも…と思わなくもなかったけれど、折しも同性婚にかんする裁判が進んでいたところ。なにか自分も行動したくなったのかもしれない。ふらりと上長のところに行き、自身が同性愛者であることと、そのうえでどんな研修をする予定か教えてほしいと話しかけた。上長は少し驚きつつも、快く準備していた資料を見せてくれた。誰かにチェックしてほしかったが、頼める人もいなくてねと申し添えながら。

 

 このときのカミングアウトの意図は、「実際にここにひとり当事者がおりますのでね。ひとつよろしくお願いしますよ」といった、上長へ緊張感をもたらすところにあった。いささか挑発的な感じがするし、無難に過ごすならとるべき行動ではなかった。けれど、研修の内容に誤解が含まれていて、同じ職場にいる当事者や、職場としてかかわりがある人の中にいる当事者へ、無自覚な加害があったとしたらと想像する。もしくは、この研修が熱意のないものに終わってしまい、隠れた当事者が「しょせんはこんな扱いか」と落胆することもあるかもしれない。そんなことを思うと、まあこんなカミングアウトもありだよなって思えたのだ。

 

 自分の属性を表明するということは、もしかしたら相手にとっては想像上の存在でしかなかった属性が実在すると知らしめることになる。

 おれはもう何回カミングアウトをしてきたのだろう。その相手は何十人といるような気がする。テレビで性的少数者にかんする話題が取り上げられるとき、おれのことを思い出してくれる人もいるのだろうか。なんだかその人にとっては、おれがその属性の代表のように思われて緊張のひとつもしそうになるけど、まあみんなそんなバカではないか。世の中にはいろんな少数者がいることを思い浮かべたとき、おれがカミングアウトしたことでその想像にリアリティが増すような扱いになっていたら、少しは意味を上積み出来ただろうか。

 

 けど、だいたいのカミングアウトはおれのことを知ってほしかっただけだからね。好きな男にデレデレして、一緒にアイスを食べた話を聞いてほしかったのよ。だからこそ、また誰かに宣言するのだろう。「ここにゲイがいるぞ!」と。

 

 

一方的な愛

 

「バンドをやってる人ってモテるんですか?」と聞かれることがままある。

 

 まあ照明を浴びて人前に立って、少なくとも自分ではカッコいいと思えることを披露しているので、魅力的に見える機会は多いのかも知れませんねえ。などと考えてみたりもしつつ、実際に聞かれるような場では「んふ~ん、どうでしょうねえハハハ」なんてごまかしている。いやぁ、リアル会話で咄嗟に長文レスしてもしょうがないからさ。

 

 ただまあ、少なくともそれなりにバンドを続けている人について、一種の愛情深さに期待を置いていいような気がしている。

 バンドをやっているとひとりで練習する時間がたくさん必要で、時間をかけてもなかなか技術はついてこない。時間をかけて練習したフレーズも、ライブの場ではあれよあれよと手が動かなくなることはザラだ。しかし、いくら本番での失敗を思い出そうとも楽器にまた惹かれ、いつ成果になるか見込みが立たなくても練習を続け、楽器を相手にしている時間をこよなく愛しているさまは、一方的な偏愛そのものではないだろうか。

 

 他の世界で趣味に生きる人のことを思い出してみる。カメラを持って一日中歩きまわる人、ひたすらコレクションの山を築き上げている人、頭に浮かんだアイデアを次々と創作物に変えている人…。誰もが一般的にわかりやすい見返りを求めるでもなく、自身が選んだ対象に向けて惜しげもなくリソースを投入している。もし、そんな熱意が特定の他者に向くことがあるならば、並みの人よりかは誰かを愛するポテンシャルがあると言えるのかもしれない。

 

 人と人が愛情を持ってつながれたとして、その中身まで同質的になれないことがある。人の愛し方って人の数だけあるんじゃないかというくらい多彩なもの。お互いに持ち寄った好意がうまく受け取れなくて、あわあわと戸惑ってしまったり、関係性を築いていくことを諦めてしまうこともあるだろう。そんなとき、自分が思っているような反応が見込めなくても愛し続けるスタンスが、結果的に関係性を強固にすることがある。相手もまた、自分がキャッチできない形で自分のことを愛してくれていて、それに気づくには時間がかかったりするのだ。相手の気持ちがわからない時間がふと出来たとき、一方的に好きでいられる能力って結構重要ではないか。

 

 ていうか、何かに愛されたいからとかじゃなくて、愛したい何かに向けて好意を差し出す。趣味の世界で当たり前に繰り広げられていることを、人間関係に持ち込むのってなかなか威勢があって好きだ。人間同士なら相互に感情を作用させ合えるのが趣味との大きな違いだと思うけれど、だからといって一方的に気持ちを向けるのが否定されるわけではないし、なんなら先制して心を開く側がいないと進展するものも進まないじゃないの。

 

 さあさあそこのけそこのけ、おれはあなたに興味があるんだ。とりあえずあなたのオタクをやらせてくれ。怖くなかったら逃げないでおくれ。細かいことはそのあとだ。

 

 

余白がつなぐ仲

 

 Netflixで配信されている「LIGHT HOUSE」という番組の空気感に憧れを抱いている。

 

 星野源若林正恭のふたりが出演するトーク番組。30分ほどの放送時間は終始ふたりのトークで、これまでの過去の話や、現在の創作にたいする思い、さらには街頭インタビューの若者が語る悩みについて、ざっくばらんに展開していく。登場するふたりのトークスキルもさることながら、この番組で注目しているのはその制作方法である。

 

 番組は全6話ですでに完結しており、収録は1ヶ月に1度行われていたそうだ。収録と収録のあいだは時間が空くが、そのあいだにお互いが一行日記と題して日々感じたことを書き残しておいて、いざ収録の場ではそこに記されたフレーズをもとにトークが展開していく。

 

 このゆるやかな収録のペースと一行日記という形式からは、制作サイドがふたりにほどよい余白を提供しようという配慮が感じられる。きっとプロの制作集団がいる以上、がっちりとトークテーマなどを用意したうえで、何本かまとめ撮りすることだってできるはずだ。むしろそのほうが効率的だろうし、力量のあるエンターテイナーであるふたりなら相応に見ごたえがあるトークを繰り広げただろう。

 

 おそらくこの番組のテーマのひとつには、ふたりが与えられた余白の時間に、相手と自分自身にどんな思いを寄せるかを観察するといった点があるように思う。長い収録と収録の合間や、あるいはひさびさに対面した瞬間に、ふたりは相手の不在を思いながらどんな話をしようか考える。詳細が省かれた一行日記のフレーズを一緒に眺めて、そのフレーズの背景にあった思いにふたりでまなざしを向けていく。ふたりの想像と共感にあふれた場がたまらなく心地よくて、制作サイドが収めたかったのはこういった空気感なのではと、まんまと術中にハマっているのだ。

 

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 Netfilixを閉じて現実世界に戻る。

 

 当面のスケジュールを確認して、誰といつ会うとか、会ったらどんなことをするとかを思い出してみる。誰もがしばらく会っていない人ばかりで、一番頻繁に連絡を取っている人でもせいぜい週に1度くらいだ。今のところ仕事以外で濃密に連絡を取る人はいないし、ましてや毎日会うような人もいない。そういった存在を拒んでいるわけではないけれど、積極的に求めているわけでもない。

 

 ああでも、少なくとも余白がない関係はヤダな。過去に、友達グループとかでお互いのスケジュールを共有して予定合わせの手間を省こう!と言われたとき、なんて息がつまることだろうと食い気味に拒んだことがある。メールやメッセージのやり取りですら、即レスよりもなるべく考えてから返したい。親しい人でも知らない部分はなんぼあってもいいですからね。

 

 けっして濃いつながりではない関係ばかり築きながら、自分はみんなことが好きだ。会えなくてもふとしたときに思い出して、そのたびに暖かい気持ちになる。なんて言うとカッコつけだな。なかなか思いがめぐらないときも正直あるけど、ふと久しぶりの人と連絡を取ることがあったなら、その人と過ごした楽しい時間のことを思い出してどこへだって飛んでいくのだ。

 

 そして、自分が思いを寄せた人と顔を合わせられた日には、それぞれが過ごした日々のあれこれを持ち寄るのだ。過ぎていった体験や考えごと、新しく出会った人の話とか…、そんなことに耳を傾けて表情を見つめるうち「そういやこんな人だったな」なんて軽く忘れていた人物像がよみがえったりして、なんなら改めていとおしさが湧いたりしてね。会えなかった時間を抱えた関係では、そんな瞬間すらも楽しいのだ。

 

 好意を持っている人が遠くにいて、当人の不在を想像で補っている人にとって、「LIGHT HOUSE」はそんな余白を抱いた日々を肯定してくれる作品のように思う。作中でこぼれる「星野さん/若林さん、俺のことそんなに知ってたんだ!」なんてニュアンスのつぶやきが、会っていない日々にあったお互いへの思索を歓迎しているよう。もしかしたら自分にしたって、思っているより周囲は自分のことを考えてくれているかもしれない…と、ちょっと希望めいた感情が呼び起こされる。

 

 今度みんなに会ったら、何を話そうかな。

 何を話してくれるのかな。

 

 

それでも行為が好き

 

 今回のエッセイ集もこれで20本目。残すところ10本である。

 

 やる気がわいてきたタイミングでエイヤッサと腰を上げ、パソコンに向かいパタパタとキーボードを打つ。まあいつも軽快に文章が進むわけではないけれど、小一時間も格闘すればひとかどの読み物が出来あがって達成感。ここしばらくはそんなルーティンを楽しんでいる。

 

 いつも掲載する日の何日か前に書き上げているので、出来あがった文章をブログに載せるまでには時間が空く。そうすると、いざブログに載せようとするタイミングで自分の文章の稚拙さに愕然とすることがある。最初に書いた時間より推敲に時間がかかることすらある。そのたびになんちゅうもんを書いてるんやとあきれつつ、結局次に出てくる文章もグチャっとした仕上がりだったりしてね。自分で納得できるような文章はそうそう生み出せないのだ。

 

 ん~、これでもエッセイ的な文章を書き始めて結構長いはずなんだけどな。中学の頃にブログを始めてから、いろんな場所に文章を置いてきた。自分なりの文体みたいなものも得ている感覚もあるし、思いついたらわりにすらすら筆…ならぬキーボードが進むんだけど。それにしてはもうちょっと文章がうまくなってもいいはずなんだがなあ。

 

 そういえば、おれは文章の練習や修行をした経験がない。ずっと思いつくままに好きなことばかり書いてきて、誰かの添削を受けるとか納得できるまで表現方法を試すとか、そういったことをしたことがない。場数はある程度踏んだけど、そのひとつひとつを丁寧に検証していないのだ。きっと、自分が今書ける文章とハッとさせられる文章の世界には壁があって、そこを乗り越えるためには技術を磨く必要があるのだろう。自分の文章をとことん批判的に見つめなおし、反省をかさねてよりよい表現を目指す。そんな修行を乗り越えればもっと自由に文章が書けるかもしれないけれど、それほどの熱量があるわけではない。

 

 ところがどっこい、現におれはこうして文章を書いている。

 けっしていい文章が書けるわけではないと知りつつ、それでも何か書きたい事柄で頭がいっぱいになって、なんとか整理するためにキーボードをパタパタと打つ。そんな時間はいつだって気持ちがいい。そして気づく、おれが求めているのは唸るような名文を世に残すことではなく、キーボードを打って文章を書く行為そのものなのだ。

 

 ***

 

 思えば、自分が得てきた能力はあくまで素人芸ばかりだ。

 

 料理をするのも、ドラムを叩くのも、自転車でどこか遠くに行くのも、それなりに好きにはなったけど大成はしなかった。どれもどこかに壁があって、ここを乗り越えるには相当の努力がいるぞと思い知らされたポイントがある。もしかすると自分の才能が発揮できるポイントはほかにあるのかもしれないし、今のままでは何物にもならない行為が積みあがっていくだけ。どこかでむなしさに襲われてもおかしくないのにね。

 

 けれどもどうして、おれはスーパーで食材を買い集めて台所に立ち、叩けないフレーズをごまかしながらドラムを叩き、ときどき膝を痛めるのを承知で気ままな自転車旅に出続けている。誰かの歓心を買うでなく、何か成果を残すわけでもなく、過ぎてしまえば飛んで消えるような時間を過ごすことに前のめりだ。

 

 だって、それでも行為が好きだから。

 

 

よびみず

 

 ずーっと趣味に生きていたいなんてことを、ずーっと考え続けている。

 

 学生の頃、結局やりたい仕事も思いつかなかったけど将来のために努力をしたい気持ちはあって、就職のためにそこそこ努力をした。そのかいあってか、結果的には安定して趣味を続けられそうな仕事に就くことができた。なんのかんのと仕事をしては給料をもらって、ときどきで興味を持てた物事を楽しむ。ふらふらと遊んでいるうちに、時間はとめどなく流れていった。

 

 働き出してから10年くらいが経った。最初に思っていたとおり仕事はそんなに発展することもなかったけれど、趣味のほうも何かを大成させた実感がない。手あたりしだいに楽しそうなことを見つけては微妙な仕上がりで満足してしまって、これといって目を見張るような成果はない。

 

 気がついてみたら、なんでもない友達がとてつもなくおおきな仕事を動かす立場になったなんて話を聞くようになる。たくさんの人とお金を動かす責任を背負って、かれの考えのもので多くの物事が動いていく。ああ、でもかれはずっと前から頑張ってたもんな。かれがどこかで歯を食いしばって努力してきた話を聞くの、好きだったな。そんな下積みが報われるくらいには、おれたちは歳を重ねたんだな。

 

「時間も出来たからなあ、また趣味もやろうかな」

 かれの成功について自分ごとのように感慨にふけていると、かれは横でぼそっとつぶやいた。どうやら、かれは仕事のために封印していた趣味を再開したいと思っていたけれど、過去に一緒にやっていた仲間の多くと離ればなれになっていたらしい。

 

 素直にうれしかった。

仕事の世界で存分に才能を発揮するかれは、ずっと前は趣味の世界でもまた輝いていたからだ。もう見れないものとばかり思っていたかれの輝きを、またそばで見ることができるんだ。かれと一緒に楽しめるなら、だらだらと趣味をやめなかったことも悪くない。自分も趣味の世界から脱していたら、もうかれと同じ世界で笑うこともできなかっただろうから。

 

 自分が趣味を続ける理由をはたと考える。

 学生の頃はただただ自分の関心を追求し続けるためだった。知識を集めて技巧を積んでちょっとでも成長で来ていれば楽しかったし、一生それで満たされ続けるとも考えていた。やがて時は流れ、コツコツニヤニヤと趣味に励むおれの姿を見て、一度は押し入れにでもしまい込んだ趣味への欲をかき立たせる人が出てきた。そんな姿を見て、自分のしょぼい趣味活動も誰かが輝くためのよびみずになることに気づく。

 

 おれは趣味を大成させられなかった。

そのかわり、おれが趣味の世界に居続けることで、周囲の人々が引っ込めてしまった一面を表出させるきっかけくらいは、いささか提供できるようになったらしい。時間を経て趣味の花を再びパッと咲かせる友達に刺激されて、自分もまた趣味をやめることなんかできなくなった。

 

 なかなかいい役回りにありつけたもんだ。

 

 

期待しないなんてね

 

「他人に期待しない」なんてフレーズを目にするようになってから早幾年。みんなどんなふうにこの考え方をモノにしていったのだろう。

 

 他人への期待について云々という話題になるときは、えてして周囲の人が自分の思うとおりに動いてくれない状況や、それによる傷つきが発生しているときばかり。セットになっていると言ってもいい。そして身近な友達からどこかのエラい知識人まで、「他人が自分の思うとおりに動くなんて期待はしない方がいい」なんてことを異口同音に語りかけてくる。という感じで合ってるんでしょうか。まあ少なくとも、自分はそういうふうに解釈している。

 

 なんとも頼りない書き方なのはそれもそのはず、いまだにその意味が腑に落ちてないからだ。

 一応、他人が原因で落ち込んだことはそれなりにあるつもりだ。自分が好意を持って接していた人にひどい態度を取られたり、仕事で信頼していた人が自分とは相容れない考えを提示してきたり…。そんな場面のひとつひとつで、この人は自分が思っていたよりも(少なくとも自分にたいしては)親切な人ではなかったのだなってため息をついたりする。いわゆる失望と言っていい感情だろう。

 

 こんなとき、失望するくらいなら最初から望みをかけなければよいのでは?というのが、「他人に期待しない」という言葉の言いたいことなんだろうか。たしかに失望するのも疲れるしムダな労力だよなあ。気楽にのほほんと生きるなら、期待も失望もない凪いだ環境を目指すのもアリだよなあ。

 

 ま、そんなこと出来るわけがなかった。おれは「他人に期待しない」というフレーズから感じる得体の知れない冷たさにより、その意味をきちんと考える前からこの言葉を忌避していた。そして実際の動きとしても、どこかで出会ってなにかをともにした人には毎度しっかりと期待をかけていた。この人とならこんなことが共有できそうだな、こんなことを提案したら乗ってくれそうだなとかって。

 

 それでもどうだろう。いまになってみて、対人的なことで落ち込む場面は以前より減っているように感じる。なんでかと言えば、期待がはずれても「まあこんな日もあるわな、しゃあなし!」などと受け流す能力が成長したように感じている。どうやら自分は、誰かに期待をかけにかけまくっても、あてがはずれたときのダメージを小さくしたり受け止めたりする力がつよくなったらしい。あの手この手を駆使して、いまでも周囲の人への期待を尽くすことなくここまで来れてしまった。

 

 だって人に期待するって楽しいんだもの。

 この人ならきっとすごいことをしてくれる、いつものように迎え入れてくれる、ダメ元だけど案外話が通るんじゃないかな…なんてことを誰かの期待を頭のなかで転がす時間はサイコーにハッピーなのだ。多幸感にあふれた他者への期待を手放したくないがために、期待外れに終わった時の気持ちの処し方が積み重なっていったようにすら思う。

 

 他者へ抱く期待を小さくする人がどんどん増えていく流れにあろうとも、おれは頭のなかで誰かへの期待を花咲かせて会いに行くよ。なあに、咲かせた花を受け取ってもらえずとも、また育てればいいだけのことさ。