一方的な愛

 

「バンドをやってる人ってモテるんですか?」と聞かれることがままある。

 

 まあ照明を浴びて人前に立って、少なくとも自分ではカッコいいと思えることを披露しているので、魅力的に見える機会は多いのかも知れませんねえ。などと考えてみたりもしつつ、実際に聞かれるような場では「んふ~ん、どうでしょうねえハハハ」なんてごまかしている。いやぁ、リアル会話で咄嗟に長文レスしてもしょうがないからさ。

 

 ただまあ、少なくともそれなりにバンドを続けている人について、一種の愛情深さに期待を置いていいような気がしている。

 バンドをやっているとひとりで練習する時間がたくさん必要で、時間をかけてもなかなか技術はついてこない。時間をかけて練習したフレーズも、ライブの場ではあれよあれよと手が動かなくなることはザラだ。しかし、いくら本番での失敗を思い出そうとも楽器にまた惹かれ、いつ成果になるか見込みが立たなくても練習を続け、楽器を相手にしている時間をこよなく愛しているさまは、一方的な偏愛そのものではないだろうか。

 

 他の世界で趣味に生きる人のことを思い出してみる。カメラを持って一日中歩きまわる人、ひたすらコレクションの山を築き上げている人、頭に浮かんだアイデアを次々と創作物に変えている人…。誰もが一般的にわかりやすい見返りを求めるでもなく、自身が選んだ対象に向けて惜しげもなくリソースを投入している。もし、そんな熱意が特定の他者に向くことがあるならば、並みの人よりかは誰かを愛するポテンシャルがあると言えるのかもしれない。

 

 人と人が愛情を持ってつながれたとして、その中身まで同質的になれないことがある。人の愛し方って人の数だけあるんじゃないかというくらい多彩なもの。お互いに持ち寄った好意がうまく受け取れなくて、あわあわと戸惑ってしまったり、関係性を築いていくことを諦めてしまうこともあるだろう。そんなとき、自分が思っているような反応が見込めなくても愛し続けるスタンスが、結果的に関係性を強固にすることがある。相手もまた、自分がキャッチできない形で自分のことを愛してくれていて、それに気づくには時間がかかったりするのだ。相手の気持ちがわからない時間がふと出来たとき、一方的に好きでいられる能力って結構重要ではないか。

 

 ていうか、何かに愛されたいからとかじゃなくて、愛したい何かに向けて好意を差し出す。趣味の世界で当たり前に繰り広げられていることを、人間関係に持ち込むのってなかなか威勢があって好きだ。人間同士なら相互に感情を作用させ合えるのが趣味との大きな違いだと思うけれど、だからといって一方的に気持ちを向けるのが否定されるわけではないし、なんなら先制して心を開く側がいないと進展するものも進まないじゃないの。

 

 さあさあそこのけそこのけ、おれはあなたに興味があるんだ。とりあえずあなたのオタクをやらせてくれ。怖くなかったら逃げないでおくれ。細かいことはそのあとだ。