ここにゲイがいるぞ

 

「ここにゲイがいるぞ!」

 

 自分が子どもの頃の教室では、男子同士がふざけてじゃれ合っているとこんな揶揄が飛んできたものだ。じゃれ合っている方も、同性同士で身体的に密着することで笑いが取れると思っている。当時はテレビをつけても同性愛者と言えば嘲笑の的で、いわゆるオカマキャラと呼ばれる笑いが流行していた。本当にみんな、そこかしこでメディアのマネをして生きているんだね。時代が流れて、同性同士の恋愛(といっても男性同士ばかりだけど)がフューチャーされたドラマがごく当たり前に高視聴率を取るようになった昨今、いまどきの学校では多少なりとも様相が変わっているのだろうか。

 

 いまさらではあるのだけど、自分はシス男性の同性愛者である。これまであれこれ語ってきた恋愛の話は親密な男性同士のことを考えながら書いてきた。手をつなぐとかセックスするとかいった行為についてもまたしかり。だって、それが自分にとっては自然なんだもん。そして、このブログとリンクしているTwitter(現: X )では、いわゆる一般的な異性愛以外の性愛を志向している人々との交流を楽しんでいる。わざわざカミングアウトしなくても、自分が男性といちゃいちゃした話をブログに書いたりツイート(現:ポスト)しても特段騒がれることもない安全な場所だ。

 

 一方、初めから対面で知り合った旧知の人々に対してのカミングアウトは、そこまで積極的にしているわけではない。自分の部屋に呼べる人くらいだろうか。ごく親しい人に自分の考えていることを隠さず話すための過程として、いわば重要な自己開示として位置付けている。一応本人にショックを与えかねないし、一緒に秘密をひとつ背負ってもらうことになるので、関係性が構築されていることはマスト。けどまあ、カミングアウトという親密さ登竜門を越えてしまえば、相手も自分もなんだか安心して付き合うことができる。一定の安全性と信頼が保たれた関係だと認識する感じだろうか。たとえば、いざ部屋に来てもらったときにBLとかを隠さなくてもいいとかね。

 

 ただ、そんな自分でも一度だけ、明確に社会的な意図をもってカミングアウトをしたことがある。

 それは職場でLGBT研修が行われると聞いたときのこと。所属内での小規模な研修で、講師も上長が務めるといったもの。まあむやみに騒ぐほどでも…と思わなくもなかったけれど、折しも同性婚にかんする裁判が進んでいたところ。なにか自分も行動したくなったのかもしれない。ふらりと上長のところに行き、自身が同性愛者であることと、そのうえでどんな研修をする予定か教えてほしいと話しかけた。上長は少し驚きつつも、快く準備していた資料を見せてくれた。誰かにチェックしてほしかったが、頼める人もいなくてねと申し添えながら。

 

 このときのカミングアウトの意図は、「実際にここにひとり当事者がおりますのでね。ひとつよろしくお願いしますよ」といった、上長へ緊張感をもたらすところにあった。いささか挑発的な感じがするし、無難に過ごすならとるべき行動ではなかった。けれど、研修の内容に誤解が含まれていて、同じ職場にいる当事者や、職場としてかかわりがある人の中にいる当事者へ、無自覚な加害があったとしたらと想像する。もしくは、この研修が熱意のないものに終わってしまい、隠れた当事者が「しょせんはこんな扱いか」と落胆することもあるかもしれない。そんなことを思うと、まあこんなカミングアウトもありだよなって思えたのだ。

 

 自分の属性を表明するということは、もしかしたら相手にとっては想像上の存在でしかなかった属性が実在すると知らしめることになる。

 おれはもう何回カミングアウトをしてきたのだろう。その相手は何十人といるような気がする。テレビで性的少数者にかんする話題が取り上げられるとき、おれのことを思い出してくれる人もいるのだろうか。なんだかその人にとっては、おれがその属性の代表のように思われて緊張のひとつもしそうになるけど、まあみんなそんなバカではないか。世の中にはいろんな少数者がいることを思い浮かべたとき、おれがカミングアウトしたことでその想像にリアリティが増すような扱いになっていたら、少しは意味を上積み出来ただろうか。

 

 けど、だいたいのカミングアウトはおれのことを知ってほしかっただけだからね。好きな男にデレデレして、一緒にアイスを食べた話を聞いてほしかったのよ。だからこそ、また誰かに宣言するのだろう。「ここにゲイがいるぞ!」と。